平成27年度学位記授与式告辞

「青年期の挫折と再起ー私の自己開示ー」

 

  平成27年度学位記授与式にあたり、鳴門教育大学の教職員を代表して、卒業生、修了生の皆さまに一言お祝い申し上げます。
 本日、学校教育教員養成課程104名、大学院学校教育研究科修士課程210名、専門職学位課程37名の皆さまがめでたく学位を取得され、新しい出発の時を迎えられましたことを心から祝福いたします。大学院修了生の中には、中国やタイからの留学生、合計8名の方々もおられます。
 この日まで皆さまを温かく見守り、支えてこられましたご家族をはじめ、関係の方々に心から敬意を表しますとともに、お慶び申し上げます。

 さて、皆さまはこれから大学という、ある種社会から守られた時空を飛び立って、世の中に出て行かれます。社会という時空の中を生きていく上で、時には大学では学び得なかった知恵が必要となったり、さまざまなストレスに晒されたりすることがあるかと思います。社会の荒波の中で人格が鍛えられることもありますが、それによって、心がくじけそうになることがあるかも知れません。そのような時に、今日これから私がお話しする自己開示を思い出し、自らを鼓舞して頂ければ嬉しく思います。

 1955年、アメリカの心理学者ジョセフとハリーが二人の名前を取って、ジョハリの窓という概念を提唱しました。彼らは人間の精神を4つの側面に区分しています。一つは自分も知っているし他者も知っている心の側面、つまり公開された自己であり「開放の窓」と呼ばれます。二つは、自分は気がついていないが他者には知られている自己の側面、つまり自分が気づいていない自己の側面であり「盲点の窓」と呼ばれます。三つは自分は知っているが他者には知られていない自己の側面、つまり自己の非開示の部分であり、「秘密の窓」と呼ばれます。四つは、自分も知らないし他者も知らない自己の心の領域であり、精神分析学で言うところの無意識の部分がこれにあたります。「未知の窓」と呼ばれます。
 本日皆さまにお話しするのは、先に述べたジョハリの窓の3つ目、つまり私がこれまで(個人的な事柄であるとして)非開示としていた領域です。私の「秘密の窓」を開けて幾つかの事柄をお話し、皆さまの心が落ち込んだ時、リフトアップできれば、これに勝る喜びはありません。

 私の秘密の窓の一つ目は、中学3年の秋に集団検診で肺結核と診断されたことです。2年7ヶ月サナトリウムで療養生活を余儀なくされ、この間2度の肺切除術を経験し肺活量が半減しました。長期の療養生活の中でメリットがあったとすれば、次の2つです。一つは療養生活の基本は安静なので、ベッドに横になったまま朝から晩まで読書が出来たことです。もうひとつは小学生から中学・高校生まで15、6人の療養仲間がいて、ハンディを背負った私たちがこれからの人生をどう生きるか、いろいろ話が出来たことです。ある女子中学生は法学部に入って法律家を目指すと言い、ある男子高校生は医師を目指すと明言しました。私は将来を見据えて療養生活をしている同年齢の仲間にいたく刺激されました。私は目前の病気に目を奪われ、病状に一喜一憂し将来の自分のアイデンティティについては全く考えていなかったのです。状況に捉われず希望を持って将来のアイデンティティを語り、日々の生活を送っている彼らを見て、私も「志向性」を持たねばならないと思いました。
 ところで、私は長い療養生活のために中学3年の出席日数がずいぶん足りなくなっていたのですが、ラッキーなことに校長先生や担任の計らいで、無事に卒業式に出席し、義務教育を修了することが出来ました。

  秘密の窓の二つ目は、高校進学と退学、そして家出です。私は同級生より3年遅れて高校に進学しました。
高校1年の秋、ある授業に関して不満がありクラスで自分の考えを述べました。先生やクラスメートには授業批判に映ったことでしょう。今では高校や大学でも授業評価は当たり前ですが、当時旧制中学から高校に移行した進学高校の授業批判はタブーだったと思います。
 そういうこともあり、私にとって高校の授業が段々と窮屈に感じられるようになりました。その上、周りは3歳年下の同級生ばかりであり、教室には馴染めませんでした。2年に進級したのを区切りに、私は両親に黙って退学届けを担任に提出し家を出ました。1年の時の担任が広島は住みやすい都市だと話していたのを思い出し、家出の場所は広島に決めていました。私が取った当時の行動を、いま精神医学的に分析し解釈すると、私は不安の病理的な解消法の一つである「行動化」を図ったといえます。サルトモルターレ(死の跳躍)に通じる危うい行動です。
 広島では、家出の翌日に職業安定所を訪ね衣料品店を紹介してもらい、即就職が決定しました。会社の寮に入ることが出来、これで食、住の心配が解消されたと思うととても安堵した気持ちになりました。家出して10日あまり経った頃、父と兄が母からことづかったという私の衣類を持って面会に来ました。父は私の高校退学を許可するから実家に帰らないかと提案し、私自身も将来に不安があったので承諾しました。
 広島への家出の記念に父と兄と一緒に原爆ドームを見学して帰ることにしました。広島駅には店長が見送りに来て、見習いなので給料は出せないがと言い、菓子折を父に渡していました。こうして、私の新世界は始まることなくあっけない幕切れとなりました。私の家出、つまり「サルトモルターレ」は成功だったのか失敗だったのか分かりません。

 三つ目の「秘密の窓」は、大学入学資格検定試験(略して「大検」と呼ばれていた)の合格と大学受験です。
 私は、高校2年の5月に正式に退学し、オリオンとZ会という二つの通信教育で自宅勉強を開始しました。
 大学を受験するためにはまず、大学受験資格検定試験(大検)に合格する必要があります。高校1年で取得した単位は大検では免除されますが、それ以外の単位は全て取得する必要がありました。当初は確実に単位を取得していくために2年計画を立てていたのですが、母親が大検合格に必要な全科目の受験を勧めました。母親の考えは「試験は受けてみないと合否は分からない。最初から諦めるものではない。」というものでした。8月の大検受験日、私は母の勧め通り大検合格に必要な全科目を受験しました。そして、運良く10月下旬に合格通知を受け取りました。これで大学受験資格が出来たわけです。
 ところで、当時の国立大学は一期校と二期校に分割されていて、2回国立大学受験のチャンスがありました。一期校の志望を鳥取大学医学部、二期校の志望を信州大学医学部と決定し、受験までの4ヶ月間のスケジュールを立て、1日10時間のペースで受験勉強を開始しました。
 既に教員を退職していた父親が午後紅茶を入れたりして私に気を遣ってくれましたが、特に進捗状況を聞くことはありませんでした。
 母親はとにかく練習のつもりで受験するだけしてみればよいと言っていました。「何事もやってみないと分からない」「瓢箪から駒」というのが母親の持論です。
 私は、一期校の受験に手応えがあったので、二期校は受験しませんでした。合格発表の日、掲示板に受験番号38番を見た時は、それまでの人生で一番達成感がありました。昭和38年のことです。学籍番号も38だったので38という数字は私のラッキーナンバーとなりました。

 大学に入学後、肺結核を再発し一般教養から専門課程に進むまでに4年かかりました。結局8年かけて私は大学を卒業しました。これが四つ目の「秘密の窓」です。私は通算で青年期の5年間を社会から隔てられた存在として生活し、楽しみと言えば読書と思索くらいであり、将来に不安を抱え死に怯えながら時を費やしました。そのことが私の人格形成にプラスになったのかマイナスになったのかよく分かりませんが、少なくとも現在の私を形作っていることは確かです。オールマイティの医師免許の中から精神医学を専門として選んだのは私の挫折体験が少なからず影響していると思います。精神分析学でいうところの心的決定論です。つまりすべての経験の積分値が、今の自分を決定しているのだと思います。

 私の人生の節目節目には、誰か親しい人の一言とか、本の一節などが契機になって生きる方向を決めているように思います。これから21世紀の真ん中を生きる皆さまは、どのように社会と関わり人生を切り開いていこうとしているのでしょうか、ぜひ考えてみて下さい。

 今日のお話の一番の目的は私の自己開示であり、それも恥多き青年期の挫折の開示でしたが、こののち皆さまの心が折れそうになった時、思い出して支えにして頂ければ幸いです。
 卒業生・修了生の皆さま、大学生活で培った人間関係を土台として、社会の中で信頼関係に基づいた、緊密な人間関係を地下茎のように構築して下さい。皆さまが社会のエピステメ(網の目)の中にしっかりと根を張り、その存在を発揮されますよう祈念いたします。
 私はこの3月末をもって学長としての任期を終えます。サラバです。皆さまの栄光の船出を心よりお祝い申し上げ、祝辞といたします。 

 

 

 

 

平成28年3月18日
鳴門教育大学長 田中 雄三
 

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