平成23年度学位記授与式告辞

「メメント・モリMemento mori」

 

 

 

 平成23年度の学位記授与式にあたり、卒業生、修了生の皆さんに一言お祝い申し上げます。
 本日、学校教育教員養成課程110名、大学院学校教育研究科修士課程179名、専門職学位課程47名の皆さんがめでたく学位を取得され、新しい出発の時を迎えられたことを心から祝福いたします。大学院修了生の中には、中国、韓国、ラオス、フィジー、マラウイ、アフガニスタン、ガーナからの留学生、合計14名の皆さんも含まれています。
 そしてまた、この日まで皆さんを温かく見守り、支えてこられましたご家族をはじめ、関係の方々に心から敬意を表しますとともに、お慶び申し上げます。

 

 皆さんはこれから大学というある種社会から守られた時空を飛び立って、世の中に出て行かれます。社会という時空の中を生きていく上では、時には大学で学び得なかった知恵が必要となったり、さまざまなストレスに晒されたりすることがあるかも知れません。そのような時、本学で築いた人間関係が大きな力になることでしょう。

 

 最初に、私たちにとって大変嬉しい、身近で現実的なお話をします。既にご存じのように、昨年12月の文部科学省の発表によりますと、本学は前年度に引き続き学部の教員就職率が、2年連続全国第1位という快挙を達成いたしました。鳴門教育大学は、昨年10月に創立30周年を迎えましたが、教員養成の目的大学として着実に歴史を刻んでいると言えましょう。皆さんの教師への熱意と努力の賜であり敬意を表します。このことを私たちは、大いに喜び、そして誇りに思うとともに、これを常態化していきたいと思っています。

 

 さて、昨年の学位記授与式では、私は東日本大震災について一言も触れることができませんでした。当時、学位記授与式に先立ち被災された方々に黙祷を捧げる以外、私には語るべき言葉が見出せませんでした。本学としましては大震災以来、募金活動、生活物資の支援、ボランティア活動などできる限りの支援活動を行ってまいりました。今後とも長期にわたって支援活動を続けていくことが私たちの務めだと思っています。
しかし、1年経った今、依然として困窮の中に置かれている被災された方々のことを思うと、本日の式典で皆さんに私が感じたことを直接お話したいという気持ちを禁じ得ませんでした。いささか個人的なメッセージをお送りすることになりますが、お許し下さい。

 2011年3月11日以降、私たちの心象風景は、キャンバス一面を鉛で塗りつぶしたような暗澹たる気持ちではなかったでしょうか。苦悩の重圧(Leidensdruck)は、今なお続いています。
 古来より、祝いの席にあって、悲しみや喪失感について思いをいたすことは、大切なことだと思われてきました。一説によると、古の人々は、祝宴において髑髏を盃となし、酒を酌み交わし、「メメント・モリMemento mori(死を忘れるな)」と自戒したといいます。髑髏盃は、祝いの盃なのです。
 祝いの最中において、悲しみや苦しみについて、悲哀や喪失について考えることは深い意味があると思います。時間がかかっても、全ての日本人がしっかりと「悲哀の仕事(mourning work)」、「喪の作業」をやり遂げねばなりません。苦悩を忘却の彼方に置き去りにしたり、無意識の中に閉じ込め蓋をしたりしてはいけません。「悲哀の仕事」をしっかりやり遂げることが、「新しい出発」に必要であることを精神分析学は教えています。

 

 さて、昨年7月、本学学生課が編集している「学園だより」の編集者から、東日本大震災について原稿依頼があった時、心の中にざわっとした抵抗がありました。未曾有の災害を受けた人々のことを思うと、とてもその当時、私が何か言語化できるようなことはないと思ったからです。
 心穏やかならぬ心境のうちに、書き上げた「学園だより」の中で、私はおおよそ次のようなことを述べています。
 {人間存在の不条理について、深く思索し、小説を物したのはフランツ・カフカ(1883-1924)ではなかったでしょうか。震災で亡くなった人たちは、「何故私はこのような突発的災害で命を奪われねばならないのか、不公平ではないのか、不条理ではないのか」と憤りと悲しみで胸が塞がれる思いではないかと思います。子ども達は人生の何たるかも知らず、青年はこれからの人生の希望を遮断され、成人は充実した人生を失い、老人は安寧な老後を奪われました。みんな、「これは不条理である」と怒りと悲しみに震えているに違いありません。私は、常々人間にとって最大の不条理の一つは、寿命に不公平があることだと思っています。しかし、この不公平感や怒りや悲しみは、どこにも持っていきようがありません。

 

 私が子どもだった頃、世の中の怖いものは、地震、雷、火事、親父の順番でした。中学1年の時に、日本という国が多くの地震帯や火山帯の上に存在していることを教えられ、怖くて仕方がなかったことを覚えています。青年期特有の兆候優位性の故だけではなかったと思います。地震帯の上に住んでいることの恐怖は、長ずるに及んでいつの間にか薄れていきました。昭和18年に私の生まれ故郷、鳥取で大震災があったと聞いていますが、記憶は朧気で、母の背に負われて裏山に逃げたというのは、記憶錯誤かあるいは捏造かもしれません。昭和27年には鳥取大火災がありましたが、私の家は郊外にあったので類焼をまぬがれました。翌日、まだくすぶっている山の上で焦土となった街を見下ろし、呆然となった記憶があります。こちらの記憶は鮮明です。

 

 長く生きていれば、それだけ危機に遭遇する確率は高まると思われますが、危機は平等に訪れるわけではありません。むしろ偏りがあるのではないかとさえ思います。
少年だった頃、私は2年半サナトリウムでの生活を余儀なくされました。2度の肺切除術で左肺の三分の二を失いましたが、手術の数日後に手鏡で窓の外を見ました。手鏡の中の光に輝いた緑の木々や草木が、目に痛いほど鮮明に焼き付き、生き延びたことを実感しました。同時にまた、不運にも手術中に亡くなった青年の顔が浮かんできました。私ではなく、何故、彼だったのでしょうか。
 爾来、「世界は不条理に満ちている」という考えは、私の思考の中核から離れません。

 

 人間存在の常とはいえ、東日本大震災で亡くなられた人々、被災された人々は不条理の中にあります。昨年春、某受験雑誌社から依頼があり、日本の将来を担う被災地の少年達に向け、次のようなメッセージを色紙に書いて贈りました。平凡ですが、直球を投げました。「いつでも、どこでも、学ぶ意欲と志向性をもって生きて下さい。」
 少年達のミットに届いているでしょうか。}
 大略、以上のような心情をやっと文言化することができました。

 光陰は矢のごとく過ぎ、東日本大震災から1年が経ちます。しかし、月日が経ってなお一層、私は今日の晴れやかな日に、皆さんに心情を吐露せずにはおられませんでした。

 

 ところで、我が国でノーベル文学賞に最も近いと言わている村上春樹氏(彼は、1995年の阪神淡路大震災や同じ年に起こった地下鉄サリン事件以前は、社会的事象や政治的状況に対して、私の知る限り、直接コミットメントすることは全くなかった作家ですが)、その村上春樹氏が多くの反対を押して、2009年にイスラエルの地に赴きエルサレム賞を受賞しました。その際、イスラエルの地で、次のような勇気ある言葉を世界に発信しました。

 

「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかれば割れる。そのような時に、私は常に卵の側に立つ。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、」と明言し、「私たちは、システムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。」しかし、「システムが私たちを作ったのではないのです。私たちがシステムを作ったのです。」と続けます。
 村上春樹氏の言葉は、東日本大震災や東京電力福島第一原子力発電所の事故後の今だからこそ、なお一層私たちの心に強く響きます。東日本大震災から年が改まり、新しい年が始まっても依然として、私たちは不条理の中にありますが、それを止揚し「卵の側に立つ」人間として生きていかねばなりません。

 

 卒業生・修了生の皆さん、社会の中で信頼関係に基づいた、緊密な人間関係を地下茎のように構築して下さい。そのシナプス、絆を介して、「常に卵の側に立つ」人間として社会に貢献することが、これからの心豊かな人生を保証するであろうと確信しています。

 

 いよいよ桜の季節が始まります。松尾芭蕉の一句をお贈りしてはなむけとします。

 

        「さまざまの事思い出す桜かな」

 

                          2012年3月16日
      鳴門教育大学長  田中雄三

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