平成22年度学位記授与式告辞

「心の健康について考える」

 

 平成二十二年度の学位記授与式にあたり、鳴門教育大学の教職員を代表して、卒業生、修了生の皆さまに一言お祝い申し上げます。
 本日、学校教育教員養成課程百十三名、大学院学校教育研究科修士課程百七十七名、専門職学位課程四十六名の皆さまがめでたく学位を取得され、新しい出発の時を迎えられたことを心から祝福いたします。大学院修了生の中には、中国、台湾、韓国、ラオスからの留学生、合計十二名の皆さまも含まれています。
 そしてまた、この日まで皆さまを温かく見守り、支えてこられましたご家族、関係の方々に心から敬意を表しますとともに、お慶び申し上げます。
 さて、皆さまはこれから大学という、ある種社会から守られた時空を飛び立って、世の中に出て行かれます。社会という時空の中を生きていく上で、時には大学では学び得なかった知恵が必要となったり、さまざまなストレスに晒されたりすることがあろうかと思います。社会の荒波の中で人格が鍛えられることもありますが、それによって、心がくじけそうになることがあるかも知れません。
 皆さまが、社会の中でどのような役割を果たしていくにせよ、心の健康を保つことは何より重要です。とりわけ、子ども達を相手にする教師という職業にあっては、心の健康が欠かせません。
 子どもの心は、健康な心の持ち主と出会ってはじめて成長するものだと、私は思います。よい教育は、教師の健康な心があってこそ成せる技です。教師は、自分自身の心的状態を鏡のように映し出し、子どもに示せるような態度価値を身に付けておくことが必要であろうと思います。
 そして、精神的健康の保持・増進のためには、一次予防が何よりも大切であり、このことを各自が自覚しなければなりません。今や、私たちは、心の健康について事後的に考えるのではなく、一次予防的にアクティブに考えていかねばならない時代を生きているのではないでしょうか。


 それでは、私たちが日頃何気なく使っている「心の健康」とは、一体どのような状態を指すのでしょうか。単に、不適応に陥っていないとか、精神疾患に罹患していない、という消極的な意味だけで「心が健康である」と判断するのは早計でしょう。身体の健康は、種々の臨床医学的検査によって、その異常の有無を確かめ、健康か不健康か比較的容易に診断ができます。極端に言えば、臨床検査データを見て、それを基準値と比較すれば、ある程度の予測が可能であると言えましょう。
 ところが、心の健康についてはどのような精神状態が健康であり、どのような精神状態が不健康であるか判断することは、なかなか難しいことです。自らを内省して、自分自身の精神が健康であるかどうか自問した時、果たして何人の人が自信を持って「健康である」と断言できるでしょうか。また、心の状態は流動的であり、固定したものではありません。
心を司る脳は、日々ダイナミックに働き、あるときは健康であっても、あるときは不健康であるということは十分考えられるでしょう。また、精神的健康の姿は、各人において独自性を持っています。
 このように「心の健康」について考えていくと、一般論ではなかなか捉えがたく、判然としなくなります。

 さて、心が健康であるかどうかの基準は、何人かの研究者によって検討され、現在、いくつかのクライテリアが設けられています。
本日は、アメリカの心理学者ゴードン・w・オルポート(一八九七-一九六七)の「成熟した人格」に、それを求めてみたいと思います。オルポートの考え方は、精神の健康について考える時、最も示唆的ではないかと私は思います。
 彼は、成熟した人格(つまり健康な精神)の判定に、六つの基準を設け、その基準の達成度によって、精神の健康度を判断しようとしました。但し、実在の人間の中に、人格の成熟の典型的なモデルを示すことは難しく、結局、理想の人間について語ることになる、とも述べています。
 これから、オルポートの言う六つの基準について、私の解釈を交えながらお話ししますので、皆さまも自分の精神の健康度を六つの基準に照らし合わせながら、その達成度をチェックしてみて下さい。


 第一の基準は、「自己意識の拡大」です。
自分のみに意識を向けるのではなく、周囲のこと、世界のことにまで意識をめぐらせ、そこで起こっていることを我がことのように考えることが出来る能力です。換言すれば、共感能力の拡大といってもよいでしょう。優れて想像力を必要とする基準です。


 第二の基準は、「情緒的安定」です。言葉を換えれば、「自己受容」ということです。
人間は、自分が否定的に思っている属性をなかなか容認出来ないものです。たとえば、能力や容姿、経済状態などに不満を持ちやすいものです。自分の気に入らない属性を無視したり、否認するのではなく、自分のあるがままの姿を受容することによって「情緒的安定」を得ることができます。これが心の健康の目安となります。


 第三の基準は、「他者との暖かい関係」を築くことが出来る能力です。一般に、人間は自己愛が強く、他者を愛することより、まず自分自身を愛するものです。それはそれで自然なことですが、それだけでは不十分です。
自己への愛と同じくらい他者への愛を持ち、暖かい関係を築くことが出来ることが、精神的健康の重要な基準になります。このことは、イギリスの精神科医グローバー,E.など、他の研究者も同様のことを述べています。


 第四の基準は、「自己の客観視」です。自分自身を対象化する能力のことです。自分自身を対象化することによって、自己への洞察とユーモアが生まれます。自己を相対的に対象化して見ることが出来ることもまた、精神的健康の基準です。


 第五の基準は、「現実的な知覚、技能・技術を持ち、社会の中で果たすべき課題を自覚すること」です。換言すれば、自我同一性の確立ということです。特に、職業上の同一性を確立することは、社会的自己定義をすることであり、自己の社会における居場所を確立することに繋がります。


 第六の基準は、「人生を統一する哲学」を持つことです。何を自分の「生き方」の根本に置くか、自分は何のために生きているか、それに答える「哲学を持つ」こと、自分の行動に統一を与える人生観を持つことです。オルポートは、内発的な宗教的情操や良心が、人生に統一を与える重要な要因になると述べています。六つの基準の中で、このことがもっとも困難な課題であろうと思います。


 このような操作的基準に逐一照らしてみても、精神の健康というものは自分で判定することが、なかなか困難なものであるということがおわかりでしょう。
 私自身は、心の健康度のバロメーターとして何を重視するかといいますと、先に掲げたオルポートの条件のうち、「自己意識の拡大」、つまり「共感する能力」と「他者との暖かい関係」をつくる能力を重視します。何故かといいますと、私たち人間は、人と人との関係性を通して成長するものであり、そのために最も重要な事柄は、「共感する能力」と「他者との暖かい関係を結ぶことが出来る能力」にあるのではないか、と思うからです。


 卒業生・修了生の皆さま、大学生活で培った人間関係を土台として、社会の中で信頼関係に基づいた、緊密な人間関係を地下茎のように構築して下さい。例えていえば、一千億個の脳の神経細胞が、互いにシナプスという接合部分を作り、脳細胞の分業体制の中で、全体として一つの機能を果たしているように、皆さまも社会のエピステメ(網の目)の中にしっかりと根を張り、その存在を発揮してください。
 そのことが、心の健康の一次予防となり、豊かな人生を保証するであろうと確信しています。栄光の船出を心よりお祝い申し上げます。

 

 

2011年3月18日

鳴門教育大学長  田中 雄三

 

参考文献 星野命他:「オルポートパーソナリティの心理学」、有斐閣新書、1982

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