平成22年度入学式告辞

 「教師のアイデンティティ 
     ー我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのかー」

ただいま入学を許可いたしました学校教育学部117名、大学院学校教育研究科・修士課程212名、専門職学位課程47名、合わせて376名の皆さん、改めて本学へのご入学を心からお祝い申し上げますとともに、お慶び申し上げます。
 また、この日まで皆さんを温かく見守り、支えてこられましたご家族、関係者の方々に心から敬意を表しますとともに、お慶び申し上げます。
さて、皆さん、いよいよ新しい学生生活が始まります。この新しい門出、「出発のとき」を迎え、皆さんの心のうちを察すれば、19世紀半ばのフランスの詩人、ポール・ヴェルレーヌ(1844 - 1896)の詩の一節が、私の心に浮かびます。
「選ばれて在ることの恍惚と不安ふたつわれにあり」という名言です。皆さんは、これから起伏に富んだ長い学生生活を送られることになると思いますが、大学という組織文化の中で、多くの新しい出会いをつくり、大いなる人間的成長と学問的発展を遂げられることを心から願っています。
 さて、鳴門教育大学は、新構想の大学として、1981年10月に創設された「教員のための」大学、「社会に開かれた」大学です。2004年4月からは、国立大学法人鳴門教育大学として装いを新たにし、来年、創立30周年を迎えるまだ若い大学です。
 学部定員400名、大学院定員600名、合わせて1000名という小規模な大学ですが、教職員は347名と多数の有能な人材を擁しており、学生の皆さん一人ひとりのニーズに合わせて、きめ細かな教育研究指導ができる体勢を取っています。
 法人化後、本学は大学憲章を定め、「教育は国の基いである」という理念のもとに、教員養成大学として時代の要請に応えるべく、高度な教職の専門性と教育実践力、そして豊かな人間愛を備えた高度専門職業人としての教員の養成を最大の目標としています。また、四国霊場88カ所の一番札所、霊山寺が鳴門にあることにちなんで、本学を「教育の一番札所」と名付けており、我が国の学校教育において先導的役割を果たしていきたいと考えています。
ところで、私は人類が生き延びるための最大の武器は教育にあると思っています。教育によってヒトは進化し発展してきました。これからも、教育という装置が人類の命運を握っているといっても過言ではないでしょう。私は、人類が言葉を獲得して以来創り上げてきた、この偉大な装置である「教育」というプロジェクトの中に布置されていることを誇りに思います。皆さんとともに、この魅力ある「教育」という壮大なプロジェクトに取り組んでいきたいと思います。

さて、受験勉強から解放されて楽しい大学生活を思い描いている皆さん、青年期、つまり大学生の時期には考えねばならない人生最大のテーマがあるのです。それは「アイデンティティ」の問題です。自分は一体何者なのかという問題です。皆さんは、中学校、高校で、あるいは小学校時代から、大学や大学院に入るために一生懸命勉学に励んでこられたと思います。現職の院生の方々は、日夜子どもたちの教育に心血を注いでこられたと思います。そのあい間をぬって勉強し、本日の晴れの舞台を迎えられたわけです。自分の進むべき方向もはっきりと自覚しておられることと思います。しかし、アイデンティティは、たとえ一度は青年期に確立したかに見えても、人生の折に触れ問い直されるのが常であります。私はあえて、皆さんにもう一度教師のアイデンティティについて自問していただきたいと思うのです。
 もともと、「アイデンティティ」という言葉は、エリクソン、E.H(1902ー1994)という精神分析家がパーソナリティの発達段階として提案した心理学上の言葉です。
 その後、この「アイデンティティ」という言葉は、「自我同一性」を指し示す言葉として、我が国の心理臨床や臨床精神医学の場において、その意義や有用性が十分に吟味され、一般的に使われるようになりました。
 それでは、自我同一性とは、一体何を意味する言葉なのでしょうか。精神医学事典によりますと、「自我同一性とは、自己の単一性、連続性、不変性、独自性の感覚である」と説明されています。つまり、自我同一性が保たれているということは、自己の単一性、連続性、不変性、独自性の感覚について揺るぎない信念を持っているということです。自分が、他の人とは代替不可能な、かけがえのない自己、替え玉のきかない自己であるということについて、自明性をもっているということです。
 青年期は、往々にしてそれまで自明なこと、当然と思っていたこと、何の疑問も抱かなかったことに対して疑義を抱くようになります。自分は一体何者なのか、どこから来てどこへ行こうとしているのか、という古くて新しい問題です。いわば、自我同一性に対する異議申し立てです。一時期、「自分探しの旅」という言説が流行りましたが、このことは、まさしく自我同一性をめぐる葛藤の現れであると見ることもできるでしょう。
自分を社会の中に位置づけることがなかなか困難である人たちを、精神分析家の小此木啓吾氏は「モラトリアム人間」と命名しました。
 青年期は、様々な同一性、たとえば、性同一性、家族同一性、集団同一性、職業同一性などに直面しながら、それらの同一性を統合し、自我同一性を確立していく過程でもあります。
 換言すれば、自我同一性を確立するということは、対人関係の中で社会化されながら社会的に自己を定義するということになります。しかし、青年期にいったん確立したかに見える自我同一性も、その後再度問い直され、変更を余儀なくされることもあります。

さて、学校現場では今何が起こっているでしょうか。いじめ、不登校、引きこもり、学力低下など問題が山積しています。現場の先生方は、学校の授業や生徒指導のみならず、家庭訪問や保護者の方々との面談など多忙を極めておられることと思います。私もかつて、本学に勤務の傍らスクールカウンセラーとして7年間学校現場に出向いた経験がありますので、学校現場の先生方のご苦労の一端は、よく理解しているつもりです。日常業務の多忙さや人間関係の葛藤の中で、ともすれば教員になった頃の初心がくじけそうになり、教師としてのアイデンティティが脅かされることもあるのではないでしょうか。これから始まる大学院生活においては、学校教育に関する全般的な力量や教科の専門性を深めるだけではなく、どうか自らの高度専門職業人としての教師アイデンティティを問い直し、それを再構築し、不動のものとしてください。
 ここで、一枚の絵を思い浮かべてください。キャンバスの向かって、右側に大地に生まれ出たばかりの赤ん坊がいます。中央には果実を採る若い娘たち、そして左端には黒く描かれた老婆と白い鳥がいます。一度目にしたら忘れられない作品です。ゴッホと親交のあったポール・ゴーギャン(1848 - 1903)の最晩年の作品です。この作品には、「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という題名がつけられています。この傑作は、皆さんも美術の時間などに一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。あるいは、ボストン美術館所蔵の実物を鑑賞した人がおられるかもしれません。
 ゴーギャンは中年期に一念発起し、職業として絵画を選択した後期印象派のフランスの画家です。人類最後の楽園といわれたタヒチ島で多くの名作を残し、タヒチでその生涯を終えました。ゴーギャンは、人間にとって根源的な問題、自我同一性の問題を絵画という表現において問い続けたのではないでしょうか。それが、最後の作品において、直截な作品名となって表されたものと、私には思えます。 

ゴーギャンのアナロジーでいえば、皆さんは何故教師になろうと思われたのでしょうか。あるいはまた、何故教師という職業を選択し、今ここにおられるのでしょうか。今どのような教師として自分自身を捉えておられるのでしょうか。そして、皆さんはどのような教師を目指しておられるのでしょうか。教師とは一体何者なのか、改めて問い直してみてください。教師アイデンティティについて、ラディカルに、哲学的に、深い葛藤と苦悩を友として思索し、自分自身が目指す教師像を明確にし、それに向かって進んでください。 
 話がいささか冗長になりましたが、私が今日、皆さんにお伝えしたかったのは、この一点なのです。教師のアイデンティティについて考えてみること、ゴーギャンのように、
「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という、大学のカリキュラム上には明示されない、この哲学的テーマについて、もっと目を向け、深く思索する必要があるのではないのか、それができるのが大学というところではないのか、そう私は思います。これから始まる大学生活は、誰もが哲学者となる時間と環境を保証してくれます。自らの教師アイデンティティについて思索し、しばしの間、哲学者となることも必要であると思います。
 皆さんが、教育という壮大なプロジェクトの中で、哲学する心を持って学生生活を送られることを切に望んでいます。多くの豊かな出会いの中で、生涯の記憶に残る大学生活を送って下さい。皆さんの洋々たる前途を心より祝福いたします。 

平成22年4月8日

鳴門教育大学長 田中雄三

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