所長だより047 「優しさと甘やかし」

2016年2月17日

 先日、学部の授業『生徒指導論(進路指導を含む。)』のテストで、「優しさと甘やかしの違いについて述べなさい」という問題を出しました。皆さんは、どのようにお考えになるでしょうか。

 私は、学生に対して、端的に、「児童生徒が求めていることに応えるのが“優しさ”」であり、「児童生徒が求めていないのに援助するのが“甘やかし”」だと説明することがあります。

 実は、これは、1995年の3月に本学で開催された鳴門生徒指導学会シンポジウム「教師にとって不登校とは」において、当時、和歌山県教育研修センター教育相談主事を務めておられた藪添隆一先生がお話しになった考え方です。

 

 甘えということをもうちょっと詳しく言いますと、「甘えさせるべきです」。私たちは人に甘えさせていただいて受け入れられたときに元気になります。しかし、「甘やかすべきではありません」。甘やかすというのは、子どもが要求していないのに、物や言葉をこっちの都合で与えることです。体が要求していないのに、おいしいからといって、つきあいだからといって、どんどん与え続けると、体はそれを吸収しなくなって排泄するようになる。つまり、糖尿病、栄養失調になります。体を甘やかしてはいけない。本当に体が要求したものだけ、ほしいものをほしい分だけ食べれば、それは体を甘えさせていることになる。つまり体が成長する原理なんです。

 

 土居健郎さんが名著『「甘え」の構造』(1971)で考察されたように、「甘える」「甘えさせる」「甘やかす」という問題は、他者を援助する職にある者にとって、なかなか難しい深いテーマだと思います。学校現場には、少なからず、「カウンセリングや教育相談は甘い」という印象を持つ教師が存在します。「甘い」とは、わかったようなふり、対決回避、指導性放棄というようなイメージです。これは、カウンセリングや教育相談に対する教師の無理解に起因する場合もありますが、うわべだけの単純な受容や共感は「甘い」関わりに陥ってしまうという意見だととらえるならば、一理あるとも言えます。土居健郎さんは、『新訂方法としての面接臨床家のために』(1992)で、面接者がただ相手に調子を合わせて共振れしているだけでは、一見、両者の間に意志の疎通が起きたように見えるかもしれないが、新しい発展は期待できないと指摘しておられます。このような単なる“共振れ”の状態を、小泉英二さんは『続学校教育相談』(1978)で、来談者もカウンセラーも目標をつかめず、ただ、二人で寄り添ってできるだけ一緒にいたい、そして相手の気持ちを理解したいという気持ちだけで、二人で手を取り合ってさまよい歩く「霧の中のカウンセリング」だと表現されています。

 ただし、土居健郎さんは、「傍観者の立場で聞いているならば、聞いたことの本当の意味はわからない。本当にわかるためには傍観者の立場を越えて、相手の立場に身をおき相手の心がこちらに伝わって来るのでなければならない」と述べておられるように、“共振れ”を全否定されているわけではありません。「カウンセリングや教育相談は甘い」という意見は、児童生徒に「合わせ過ぎる」「振り回され過ぎる」ということ、すなわち“共振れ”“霧の中のカウンセリング”にとどまるような相談活動への批判としてなされている限りは正しいでしょうが、往々にしてこの種の意見は、児童生徒(クライエント)が自分の直面する問題を乗り越えていく過程において必要となる、教師(カウンセラー)の“共鳴”“抱え機能””自立のために必要な依存の受け入れ”まで否定してしまう危険性があるように思います。私は、このあたりの問題を、児童生徒との実際の関わりを通じて検証していく中に、「優しくて厳しい教師」の姿が浮かび上がってくるのではないかと考えています。

「甘やかし」という問題について、共著『思春期理解とこころの病―こころと心をつなぐ学習プラン』(2003)の中で書いたコラムをご紹介しますので、皆さんのご意見をお聞かせいただければ幸いです。

 

《コラム》「自己肯定」は「甘やかし」か…

 

 本書には、自己肯定や自尊感情をテーマにした教材がいくつかありますが、ある日の編集会議で、このような教材について、現場の先生方の中には、ある種の「甘さ」を感じる方も少なからずいらっしゃるのではないか…ということが話題になりました。たとえば、「自分をしっかりと律することができない放埓な生徒や自堕落な生徒に『自分を肯定する』メッセージを送るのは、甘やかしになるのではないか」というような疑問です。

 「甘さ」という言葉の連想から、糖分摂取を例に考えると、不足している人は糖分の補給が必要でしょうし、逆に摂り過ぎの人は控える必要があることは明らかだと思います。同じことが、教育の場でも言えるかもしれません。自己肯定をめざす学習は、否定的な自己イメージにとらわれて苦悩している生徒にとっては深い意義を持つことでしょう。けれど、自省を忘れた怠惰、尊大な生徒が底の浅い自己肯定に走るようなことは、この教材が求めるものではありません。社会教育の場などは、そもそもそこでの学びを必要としている人たちだけが自主的に集まってくるのでこのようなワークがピタリと「はまる」でしょうが、学校で教師が向かい合うのは、それこそ多様な状態にある生徒たちです。ですから、学校教育の場では、ワークの最後に、「自分を受け入れるということの大切さを今日は考えてみましたが、自分の中の『だらしなさ』や『おもいあがり』などの問題と正面から向かい合えていない人は、『受け入れる』というよりは、目をそらさずに『直面する』というニュアンスで考えてみてはどうでしょうか」というようなコメントを工夫する必要があるかもしれません。

 また、別の言い方をすれば、「自己肯定」は誰にとっても普遍的に意味を持つのだけれど、自己の内面の「何を」「どのように」肯定し受容するかについて深い洞察が伴っていなければ、単純な居直りに陥る落とし穴があるということなのかもしれません。

 ところで、このあたりの問題は、「カウンセリング・マインド」に対する教師の反応の二極分化とも符合しているように感じます。すなわち、陽極には「強制や指示を避け受容と共感を基本に傾聴することが大事」、陰極には「迎合・言いなりではなく毅然たるしつけ・指導が不可欠」という分裂です。確かに、前者は、気をつけないと結果として「かかわりが甘くなる」「対決を回避する」危険性があることを自覚しておくべきでしょう。けれども、だからと言って「カウンセリング・マインドは学校現場では無益である」と結論付けるのは単純すぎます。そうではなくて「何を」「どのように」受容し共感するかについて、どこまで深めることができるかにこそ、事の成否がかかっているように思います。「タバコを吸っている生徒に『君はタバコを吸いたいんだね』なんて対応をしていて生徒指導ができるわけがない」という類の俗論を耳にすることもありますが、言うまでもなく、カウンセリングで言われる受容も、あるいは人権教育で言われる生徒理解も、こんな皮相的な対応を意味しているのではないはずです。ちなみに、非指示的療法(のちに来談者中心療法)を提唱したロジャーズの理論が、放火や窃盗を繰り返す子どもたちに対するニューヨークでの児童相談の臨床(現場)の中から生まれたのであり、決して机上の理想論ではないという事実は、あまり知られてはいませんが、銘記されるべきでしょう。「カウンセリング・マインド」も「自己肯定」の学びも、決して「荒れた学校では通用しない」のではないと思いますが、いかがでしょうか。