所長だより045 「天狗のすき焼き」

2016年2月3日

 教育に関する言説について、ときどき、「それって“天すき”じゃないの?」と思うことがあります。“天すき”とは、「天狗のすき焼き」のことで、古典落語の『天狗さし』に出てきます。

 毎度おなじみの「おもろい男」が、甚兵衛さんのところに、金儲けの相談にやってきます。この男は、不思議なことを思いつく男です。

 たとえば、餅屋で杵と臼で餅をついている様子を見て、杵を振り下ろす時にはかなりの力がかかるが、振り上げる時にも力がかかる、その振り上げる力が無駄やと考え、振り上げる場所にもう一つ臼を置いといたら、その振り上げる力で餅がつけるのでは…と言います。そこで、甚兵衛さんが、「ほな、その上の臼はどないして止めとくんや?」と尋ねると、その男は「それをあんたに相談に来ましてん」。

またある日は、「10円札を9円で仕入れて、11円で売ったら儲かりまっしゃろ。額面通りの10円で売ったかて、1円の儲けや」。そこで、甚兵衛さんが、「そやけど、その10円札をどないして9円で仕入れるんや?」と尋ねると、その男は「それをあんたに相談に来ましてん」。

この日も、同じ調子で、この男、食べもん商売での金儲けの相談に来ます。「“天すき”を始めようと思いまんねん」。甚兵衛さん「天すき?」。男は、天狗のすき焼きだと説明します。これならどこにも無い、きっと繁盛する…。そこで、甚兵衛さんが「その天狗、どっから仕入れるんや?」と聞くと、その男は「それをあんたに相談に来ましてん」。

 この後、男は京都の鞍馬に天狗を取りに出かけるという話です。

 要は、「○○をすればお金が儲かる」という命題は正しいけれども、肝心の「じゃ、どうすれば○○を実現できるのか」が抜け落ちているという“面白さ”ですね。

 教育に関する言説について、「それって“天すき”じゃないの?」と思うことがあるというのも、同じ意味です(この場合は、“面白い”ではなく“腑に落ちない”という感情が伴いますが…)。「○○をすれば学校は良くなる」という命題そのものは正しいけれども、「じゃ、どうすれば○○を実現できるのか」が抜け落ちている教育言説が、私は少なからずあるように思います。そんな言説に出会ったとき、私は、心の中で、「それって“天すき”やんか!」と突っ込みを入れたくなります。

 また、自分自身が、生徒指導や人権教育などを語っていて、ついつい“天すき”に陥ってしまうこともあります。そんな時は、後で、自分で自分に「“天すき”やったんとちゃうの?」と突っ込むこともあります。

 たとえば、「児童生徒が自尊感情を持っている学級は良い学級である」(「自尊感情」は、自己肯定感・自己有用感・自己効力感・肯定的自己概念・セルフエスティーム…、どんな言い方であっても本質は同じだと思います)という命題、正しいとは思いますし、否定・反論したいというわけでもありません。けれども、それじゃ、「どうすれば自尊感情を実現できるの?」と尋ねられた時に、「それをあんたに相談に来ましてん」では、“天すき”と同じですよね。つまり、「どう実現するの?」を欠いたままで、いくら小難しい専門用語を振りかざしても、「実際に役に立つ話にはならない」のではないかと私は思っています。

 近年は、自尊感情を育むワーク・アクティビティ・エクササイズも開発されています。そのような活動には一定の意味があると私も思いますし、院生と一緒に実践・研究に取り組みこともあります。けれども、「自尊感情」を、より大きく「自分とは何か」「生きるとは何か」というテーマとして考えるならば、それは、HRや総合的な学習の時間などでの特設のプログラムだけで育めるものではなく、すべての教育活動を通じて育んでいくもの(しかも簡単には到達できない永遠の目標)であり、さらに言えば、学校教育の段階で獲得・完結するような問題ではなく、人が一生をかけて苦悩しながら追い求めていくテーマではないかと思います。

だから、数時間のプログラムで自尊感情が育める(≒幸せになれる)教育方法を考えるという発想から、私はどうしても“天すき”を連想してしまうんです。

また、自分自身のことを考えても、「自尊感情を持っています」と即答できるわけではなく、所長だより016でも書きましたが、いくつになっても「厄介な自分」が性懲りもなく顔を出し、そんなことを繰り返し年を重ねる中で、嫌いなほうの自分の取り扱い方もそれなりに心得てきて、何とかバランスをとっているというのが正直な実感です。そんな私にとっては、「自尊感情」はめざす理想としては大切な道しるべですが、現実の自分にあてはめてみると、「上に固定した臼」「9円で仕入れる10円札」「天すき」と同じようなリアリティのない概念にすぎないように思えます。

「子どもの主体性が大切」「教師の協働性が重要」…、これらの命題も、「じゃどうすれば実現できるのか」を抜きにしていくら専門的な修辞を凝らしても、それは“天すき”と同じではないでしょうか。そうならぬように、私は、具体・実際・個別・事例を基にした教育言説にこだわる「教育臨床学」の立場を大切にしていきたいと考えています。