所長だより044 「わかりやすいはわかりにくい?」

2016年1月27日

 『わかりやすいはわかりにくい?』、これは、鷲田清一さんの著書です。サブタイトルは「臨床哲学講座」となっています。

 タブレット純というお笑いタレントをご存じでしょうか。私は、2014年の「歌ネタ王決定戦」で、初めて彼の芸を見て、爆笑してしまい、大好きになりました。そして、「わかりやすいはわかりにくい?」の書名を思い出しました。

 私が見た彼の歌ネタは、小学校の算数の文章題をもとにしたものでした(実在の問題なのか、ネタのために創った問題なのかは定かでありませんが、実際にあったとしてもおかしくはない問題です)。

 タブレット純は、独特の風貌と弱々しい声で、最初にこう切り出します。

 

「わたくし、あのぉ、子どもの頃から算数の文章題というのがすごい苦手で、

数とか時間とかを求めようとする以前に、文章の中味といいますか…、

『高橋くんはどこに向かおうとしているんだろうか?』とか

『なんでこんな重いものを持たされなければいけないんだ』とか、

そんな文章の物悲しさばかりに目がいってしまって、

とても答えを求めるところではなかったんですけれども、

そんなチョッとやるせない思いを歌にしてみようと思って、作った歌がございます。

ヌマブクロ第二中学からの問題になります。」

 

 その後、声は一変、低い迫力のある声で、問題文を説明します。

 

「シゲ子さんが たまごを15,750円で仕入れました。

二割五分の利益を見込んで、たまご125円の定価で売る予定でしたが、

仕入れた卵のうち何個かが割れていたため、

割れていない卵を全部売っても利益が2,150円にしかならないことがわかりました。

割れていない卵を全部売って、初めの予定通りの利益を上げるためには、

1個の定価を何円にすることが必要ですか?」

 

 そして、ここから歌になります(マヒナスターズのバックコーラスも務めていたとかで、すごい歌唱力です)。

 

「そんな事より気になるの~、シゲ子さん。

一体どんな運び方をしてそんなに卵を割ったのですかぁ~。

全部売っても2,150円って、そんなんで生活できるんですかぁ~。」

 

 こんなパターンのネタが、いくつか続きます。算数的なテーマを抽出して考える以前に、文章題の「奇妙なたとえ方」が、どうしても「そんな事より気になるの~」というネタです。

他には、こんな文章題も登場します。

 

「一郎と次郎がキノコ狩りに行きました。

一郎と次郎が初めに取ったキノコの数の比は7対3でした。

ところが家に戻る途中で、一郎が7個を落としてしまい

次郎は新しく6個見つけましたので取って帰りました。

家に着いてから2人の取ったきのこの数を比べてみると

一郎と次郎の比は4対3になりました。

一郎が初めに取ったキノコの数は何個ですか?」

 

この問題に対し、タブレット純は「7個ものキノコを落としておいて全く気づかないって…」「次郎が新しく見つけた6個というのは、そもそも、あなたのキノコなのではないですか?」と“気になる点”を突っ込むのです。

 誤解のないようにお断りしておきますが、私は中学校の数学や小学校の算数の教え方を茶化すつもりはありません。私は高校の教師だったので、特に小学校の授業を参観させていただくときは、いつも、小学生(とりわけ低学年の児童)に教えることの難しさを感じるとともに、小学校の先生方の「わかりやすい授業」のための指導方法に感心します。とりわけ、算数については、高校の数学のように「抽象的思考」「アルゴリズム的思考」で学習を進めていくわけにはいかないので、具体物にたとえたり、数図ブロックを使ったりと、いろいろと工夫されていることに感心します。

 あくまでそのうえでの話ですが、タブレット純の「そんな事より気になるの~」は、どうやら幼い時の実体験に基づくようで、そうであるなら、ひょっとしたらタブレット純のネタは、大人の論理の「わかりやすさ」が、かえって子どもにとっては「わかりにくさ」となる可能性もあることを示唆しているのかもしれないと思いました。

 「卵」や「キノコ」にたとえた出題者は、具体物にたとえることで「わかりやすくなる」と考えてのことで、「卵」「割る」「キノコ」「落とす」自体は何の必然性も意味も持っていないと考えているのでしょう。けれども、子どもは、具体物にたとえられると、ある意味では素直に、リアリティのあるモノ・コトとして受け止めその意味を考えてしまう、そして、“たとえ”が奇妙であればあるほど「そんな事より気になるの~」となってしまうのかもしれません。また、特に発達障害のある児童生徒にとっては、余分な情報・刺激が混乱を生じさせることになることも考えられます。そういう意味では、“奇妙なたとえ”“不自然なたとえ”に対する教師の感受性は、児童生徒理解という点から、省みる必要があるかもしれませんね。タブレット純のネタの最後に出てくる文章題では、

 

「あやさんとお父さんとお母さんが、水の中に立っています。

 お父さんの身長の半分が水中にあり、

 お父さんとあやさんの水面上に出ている部分の比は2:1です。」

 

ここでタブレット純は、

「そんなことより気になるの、あやさん。

親子三人、ただ水中に突っ立って一体何してるんですかぁ~」

と突っ込みます。

私も“水中に立っている”という点は少し気になりますが、それ以上に気にかかったのは、問題作成者が、ほかにいくらでも“たとえ方”があるはずなのに、一体、どういうつもりでこんなシチュエーションを選んだのかという点です。大真面目に考えて“たとえの奇妙さ”に気がつかないのだとしたら“喜劇”だとも思えますし、その結果、児童が混乱したとしたら“悲劇”だとも思えます。

 「考え過ぎだ」「問題の本質に目を向けさせるべきだ」という声も聞こえてきそうですが、私はそうは思いません。自分の中に直感的に連想したことや浮かんだイメージを捨象して(≒自分を抑えて)、出題(者)の意図を考えるという“作業”に慣らされることの問題点も大きいように思います。

 河合隼雄先生は、ご自身の文章が使われた入試問題の「作者の真の意図はどのようなことであったか」という設問の「正解」を見て、「なるほど私の真の意図はこれだったのかとわかって感激させられることが多い」とユーモラスに書いておられますが、続けて、

 

その答えの当否よりも、このような設問に慣らされることのほうが大問題ではなかろうか。ある受験生はこのような問題を解く「秘訣」として、「なるべく自分で考えず、常識的にはどうなるだろうかと考えてみる」ことだと述べたことがある。確かにそれはひとつの秘訣であろうが、それはまさに、その個人の想像力の翼をもぎとることではなかろうか。

《河合隼雄(1984)『日本人とアイデンティティ』》

 

と述べておられます。タブレット純の「そんな事より気になるの~」に、何とも言えないおもしろさと共に、ある意味では豊かな想像力を捨て去らない“人間的魅力”を感じるのは私だけでしょうか。