所長だより042 「荷を下ろさない姿勢」

2016年1月13日

 海外で何らかの事故があったときに、アナウンサーが「なお、日本人の被害者はいないもようです」等のコメントをすることがありますね。その国に滞在中の方のご家族や関係者の方々にとっては、これは重要な情報だと思います。そのことを認めたうえでではありますが、以前、ある人が、「日本人の被害者がいなかったらそれで問題がないようなニュアンスが伴ってしまう」ことが気にかかると、投書されていました。発信する側は意図していなくても、示された文脈に別の意味が付与してしまい、受け手に違和感を与えてしまうことがあるのではないかという指摘ですね。

 先日、新聞を読んでいて、ある記事に違和感を感じたことがありました。中学生の男子生徒が電車にはねられて亡くなった事故についての記事でした。記事の最後には、「教頭は『生活態度に問題はなく、1、2学期の校内アンケートでは、いじめをうかがわせる記述はなかった』と説明している。」と書かれていました。

 30数行の小さな記事ですので、報道する側も、限られた字数の中で必要と判断した内容に絞ってまとめられた記事だと思います。また、学校のコメントも、紙面に載っているのはこれだけですが、ひょっとしたら取材に対して、他にもいろいろな話をされていたかもしれません。あくまでその前提での感想ですが、記事を読んだ後に、私には何となくすっきりしない感じが残りました。その理由は、「いじめが原因でなかったらそれで問題がないようなニュアンスが伴ってしまう」という点でした。

 近年、いじめが大きな社会問題になっていることは、私もよく認識しています。したがって、いじめの有無に焦点を合わせた記事の組み立てになることも、よくわかります。けれども…。

 中学時代あるいは高校時代を過ごす生徒たちは、例外なく何らかのかたちで「大人になる」という難しい課題に直面しています。そして、「大人になる」プロセスは、思春期危機という言葉があるように、大なり小なり、危機を伴うものです。(思い起こせば、私が生徒指導・教育相談の意味を考えるうえで大きな影響を受けた本は、山下一夫先生がテキストとして推薦されていた、河合隼雄先生のご著書『大人になることのむずかしさ』でした。)そんな時代を通り過ぎてしまった私たち大人はついつい忘れがちですが、自身の中学・高校時代を振り返れば、不安や動揺に彩られた「疾風怒濤の時代」であったことを思い出すことができるはずです。

 そうであるなら、「子どもの自殺」という問題は、「いじめ」の問題として検証するだけでなく、より幅広く「思春期危機」の問題としてとらえることが重要ではないかと思います。言い換えれば、たとえ「いじめ」が無かったとしても、私たちは、教育者として、「危機から救えなかった」という荷を下ろしてはいけないということではないかということです。

2010年、川崎市で中学3年生男子生徒Sくんの自殺事件が起きました。その3年後の20138月、NHKで、ご家族や同級生への取材を基にしたドキュメント「僕はなぜ止められなかったのか?~いじめ自殺・元同級生の告白~」が放映されました。亡くなったSくんの同級生のKくんが、「友達の自殺を止められなかったこと」について、3年間(そしておそらくその後もずっと)苦悩し続ける姿が強く印象に残りました。Kくんは、Sくんがいちばん心を許していた友人であり、Kくんは「いじめ加害」の側にいたわけではありませんでした。それでも、彼は、Sくんの自殺を、自らの問題として、決して荷を下ろさず、真摯に考え続けていました。

重松清さんの『青い鳥』(2007)は、中学校におけるいじめによる“野口くん”の自殺未遂事件を扱った小説です。事件の後、病休に入った教員に代わって担任となった村内先生は、「忘れるなんて、ひきょうだな」と語り、転校した野口くんの机を教室に戻させ、彼の席であった窓側の列の前から3番目のところに置かせ、無人の机に向かって「野口くん、おかえり」と声をかけます。そして、次の日から、毎朝、「野口くんおはよう」と無人の席に話しかけます。小説の後半に、同級生の園部くんが、その意図を尋ねる場面があります。

「…先生。なんで、野口の席、つくったんですか? …なんで、野口の席に毎朝、声をかけてるんですか?」

「だって、野口くんは、この教室にいたかったんだから。ずっと、座っていたかったんだから。だから、先生は、野口くんの名前、ずーっと呼んでやるんだ。みんなは、野口くんの苦しみに、気づかないほど、あの子のことを、軽くしか見てこなかったから…だから、先生は、クラスでいちばん、あの子のことを、たいせつにしてやるんだ。」

「でも、本人いないじゃないですか。本人にはわかんないじゃないですか。」

「そうだよ。でも、野口くんはいなくても、みんなはいるから。みんなの前で、野口くんを、たいせつにしてやりたいんだ。」

「それって、ぼくらに罰を与えてるってことなんですか? 忘れるのは許さないって、ぼくらに罰を与えてるわけでしょ?」

「そうじゃないよ。」

「じゃあ、なんなんですか?」

「責任だ。…野口くんは忘れないよ。みんなのことを。一生忘れない。恨むのか憎むのか、許すのかは知らないけど、一生、絶対に忘れない。」

「…はい。」

ちなみに、園部くんも、決して「いじめ加害」の中心にいたわけではありません。けれども、「原因は何なのか」「誰が悪いのか」ではなく、「なぜ止められなかったのか」という問題の立て方をするならば、縁のあった誰もが大切に受けとめ考え続けるべき問題になるのではないか…、村内先生は、それを「責任」というキーワードで示したのだと思います。

そんな観点に立てば、たとえ、アンケート等の結果からはいじめの事実が認められなかったとしても、「いじめをうかがわせる記述はなかった」として「縁のあった者としての責任」の荷を下ろすのではなく、いじめの有無にかかわらず、「学校としては、彼が死を選んだ意味を、そして、彼を救えなかった意味を、教師も生徒もみんなで真摯に考えていきたいと思う」ということを語るべきではないかと思います。(繰り返しになりますが、ひょっとしたら、この教頭先生も、記事には載っていない他の何らかの言葉をおっしゃっておられたのかもしれませんが…。)

 社会問題化に翻弄されることなく、私たちは、どこまでも、教育の問題として、児童生徒の問題を語る姿勢を大切にしていきたいものです。