所長だより041 「アメージング・グレース」

2016年1月6日

  数年前の野外コンサートで、夏川りみがアカペラで「アメージング・グレース」を歌うのを聞きました。英語の歌詞の後に、うちなーグチ(沖縄語)の歌詞が続きます。

 太陽(てぃだ)月(ちち)の光 首里天加那志(しゅりてぃんじゃなし)

 見守(みまむ)やい給(たぼ)り 我御主加那志(わうしゅがなし)

 天(てぃん)ぬ群(む)り星や 我(わ)上(うぃ)どう照(てぃ)らす

 黄金満星(くがにみちぶし)や 皆(んな)どう照らす

会場中がどよめくほど、その歌声は美しく、神々しく、そのメロディーと詞が心に染み入りました(You Tubeで「夏川りみ」「アメージング・グレース」「つま恋」で検索すると聴くことができます)。

 1月1日の朝日新聞。特集「世界はうたう」の記事で、昨年6月にオバマ大統領が「アメージング・グレース」を歌ったことを知りました。場所はサウスカロライナ州チャールストン、白人至上主義者による黒人教会襲撃事件で射殺された9人の黒人の追悼式でのこと。

 

 力強く進んでいたスピーチが、突然止まった。沈黙が10秒ほど続いた。犠牲者の同僚であるロニー・ブレイルスフォード牧師が前方をうかがうと、オバマ氏は、5メートルほど先の演台で下を向いていた。「何を言おうとしているのかな」。そう思った直後、オバマ氏は伴奏なしで歌い始めた。

   アメージング・グレース なんと甘美な響き

   人でなしの私を救って下さった

たちまち総立ちの大合唱に。天を見上げ、涙を流す人もいた。ふだん冷静に振る舞う大統領が、この日は犠牲者一人ひとりの名を、叫ぶように読み上げた。

「事件直後の遺族の行動から、大統領はこの歌を選んだと思う」。ブレイルスフォ-ドさんは振り返る。

 追悼式の1週間前、逮捕された容疑者が出廷した。遺族は一人ひとり、モニター越しに男に語り掛けた。

「あなたは私から大切な人を奪いました。もう彼女(母)と話し、抱きしめることもできません。でも私はあなたをゆるします。」

「私は自分がとても憤っていることを告白しますが、憎むことはありません。ゆるさねばなりません。あなたの魂のために私は祈ります。」

地元の教会で23年、ゆるすことの意味を説いてきたブレイルスフォ-ドさんもその言葉に圧倒された。

 

 白人至上主義というアメリカの闇と共に、大統領が「ゆるす心」を歌うというアメリカの光を感じました。(You Tubeで「オバマ大統領」「アメージング・グレース」で検索し、是非一度、ご覧になってください)。

 コリー・ローリック牧師は、こう語っています。「我々の歴史は、痛みの歴史。何か被害を受けた時、ゆるせなければ、いつまでも憎しみに心を支配される。ゆるすことは、自らを解放することなのです。」

 残念ながら、今の日本で、このような場面で、「ゆるす心」をテーマにした大合唱が起きることは想像できません。「ゆるす心」、私たちの国で、いちばん欠けているものがそれではないかと思いました。そして、5年前、「校長室だより」で、『ゆるす』ということについて文章を書いたことを思い出しました。

「何かと言えば『責任追及』『悪者探し』、そして非を見つければ情け容赦のない『バッシング』『こきおろし』…。私は、現代の日本社会が取り戻すべき知恵は『ゆるす』ことではないかと思っています。」

アンソニー・フィリップは、「赦しがなければ、共同体の中では何の癒しもあり得ない」と言いました。今年は、「ゆるす心」を軸に据えて、生徒指導を考えてみようかと思っています。そうすれば、いじめ問題等についても、昨今のような抑圧的、管理的、強迫的な論調とは異なる文脈が見えてくるような予感がしています。

 

校長室だより N0.42 H23-02-18 ゆるすこと

 

大阪府では来年度から、生徒の<志や夢><規範意識やマナー><より良い社会を創ろうとする態度>などをはぐくむ「志学(こころざしがく)」が始まりますが、私は、「ゆるす」ということも布施高志学のキーコンセプトのひとつにできればいいなと考えています。

作家の曽野綾子さんは、

「現代は『許しの時代』ではなく、『怨みの時代』である。怨みは社会正義と関係があると言われているからである。つまり、社会で悪がなされた時、それを是正するには、許してはいけないのであって、許さずにいる怨みや憎しみの感情こそが、正義の道に到着する方途であるという考え方である。」

と述べておられます。

批判・追及・告発・クレーム・バッシング…、異議を申し立てるアクションが、自分も他者も含めたすべての人間に対する深い<人間愛>に裏打ちされたものであるのか、単なる<怨みや憎しみ>の表出であるのかを峻別されずに、すべて「社会正義」の名のもとにまかり通るようになってしまったために、曽野さんが「怨みの時代」と表現されたような、現代社会の醜悪な一面が生まれたのではないかと私も思っています。

 

ちょうど一年前、世間では、「国母問題」が大きくとりあげられていました。2月9日、スノーボードのオリンピック日本代表の国母和宏選手は、バンクーバーに向かうために成田空港に現れましたが、日本選手団公式スーツを崩し、「腰パネクタイ緩め・シャツの裾出し・ドレッドヘア・鼻ピアスサングラス」というスタイルでした。出国の様子を見た人々から全日本スキー連盟に抗議が殺到、日本オリンピック委員会はスノーボードの監督に厳重注意、国母選手は選手村入村式を自粛、翌2月10日の記者会見で、服装の乱れについて、

「反省してまーす」

と発言しましたが、その後で、舌打ちしつつ

「チッ、うっせーな」

と口走りました。このような言動について、国母選手が在学する東海大学が「誠に遺憾」と見解を示し、全日本スキー連盟はオリンピックへの参加辞退の意向を示しました。さらに、2月15日には衆議院予算委員会でもこの問題がとりあげられるなど、大きな社会問題となりました

私自身も、国母選手のファッションや言動には、「しょーもないこだわりやなあ…」「大人げないなあ…」というようなネガティブな感情を抱きました。ただし、そのうちに、「うんざり」の気分は、国母選手に対してよりも、マスコミの報道が過熱し亀田兄弟・朝青龍に続く標的を作りバッシングを重ねる風潮に対して、より大きくなってきたことも覚えています。

3月4日の新聞のスクラップが残してありました。精神科医の齋藤環さんの、次のようなコメント(要約)が心に残り、切り抜いたように思います。齋藤さんは、「すでに選手村入村式への出席自粛という形できちんと処罰されているにもかかわらず、本人に謝罪会見をさせ、両親や関係者にまで謝罪のコメントを取りに行くという、マスコミの異様な風景」こそが「大きな問題」だと指摘されていました。

 

一躍若きヒール(悪役)に祭り上げられた国母選手を、暴行事件で引退を余儀なくされた元横綱・朝青龍になぞらえる向きもある。管理すべき立場の人間がちゃんと「しつけ」をしなかったために、かくも「品格」のないコドモが幅をきかすのだ、と言わんばかりに。

大人が叱れないことが問題だという見方だ。しかしそこには、さらに構造的な問題がある。大人が叱る前に世間が叩いてしまうこと。「公正」さよりも「気が済む」ことが重視されること。そして、倫理の代わりに品格が持ち出されるという問題が。

世間は人を罰しない。世間がするのは「気が済む」まで「恥をかかせる」ことだけだ。家族ぐるみで恥をかかされた人間は「反省したふり」はしても、本当に反省することは決してない。こんな当然のことを、世間=マスコミは忘れたがる。

 

ちなみに、この騒動に際して、本当の意味で国母選手と対決し、本当の意味で「ゆるす」姿勢を示したのは、日本選手団団長の橋本聖子さんだったように思います。こちらの切り抜きは残念ながら残していないのですが、確か、橋本さんは、国母選手に対し、

「オリンピックですべりたいの?すべりたくないの?」

と、単刀直入に<いちばんの本質>を問いただし、すべりたいという国母選手に対し

「それなら、競技で人々に夢を与えられるように、精一杯頑張りなさい。」

と話されたと記憶しています。そして、2月12日の緊急記者会見で、

「多くの方からお叱りを受け、全日本スキー連盟から国母選手の大会辞退の意向も示された。『公人でありすべてに規律ある行動を行う』という選手団の行動規範に違反しているので開会式出席の自粛も決めた。だが本人も反省し、競技で責任を全うしたいとの思いも強い。私の判断で出場させる。責任は私が負う。」

と毅然と語られました。会見に同席した国母選手も、10日の会見とは一変した表情で

「責任を重く感じている。雪上で良い滑りができるように頑張りたい。」

と謝罪しました。

 世間のバッシングの嵐に飲み込まれることなく、一人の成長途上の若者に対して、橋本さんが本気で向かい合った姿勢が、国母選手の心を動かしたことは想像に難くありません。

 「いじめの構造」と相似の<袋叩きをおもしろがる風潮>、それに巻き込まれないようにするのは簡単なことではなく、ましてや、「ゆるす」ことは本当に難しいことです。私自身も、当初は国母選手に対して、かなり強いネガティブな感情を抱いていました。

でも、もしも「ゆるす」ことができない場合でも、私たちは最低限、許せなかった自分の<悲しさと醜さ>を自覚し続けるべきだと思う…、曽野綾子さんはそう語っておられます。自分の内面の<怨みや憎しみ>の闇を自覚することの大切さについての警句だと思います。

 

「現代の日本社会が取り戻すべき知恵は『ゆるす』ことではないかと思っています。」

あえて<取り戻すべき>と書いたのは、昔の人は、何でもかんでも「告発してやる」「訴えてやる」ではなくて、「しゃーないなあ」と<ゆるす>知恵を持っていたように思うからです。私は、祖父から、そんな態度を教わったように思います。

私が小学校低学年だった頃、祖父が、泉南のある港で出航する船を見送っていて、後方を確認せずにバックしてきたトラックにはねられる事故が起きました。家族ですぐに病院にかけつけると、祖父は、頭に包帯を巻いてベッドに横になっていましたが、幸い意識もはっきりしていて、一安心しました。そのうちに、トラックを運転していた男が、うなだれながら病室に入ってきました。祖父は、

「おまえ、家族はおんのか?」

と話しかけました。男は、おどおどしながら、

「妻と子ども二人がおります。」

と答えました。すると祖父は

「ほうか。…わしは大丈夫や。今度から気ぃつけや。もう帰り。」

と言い、男は頭をぺこぺこさげながら病室を出ていきました。もちろん、その後も祖父は、男に何の「補償」も求めず、数日後に退院しました。

私が小学校4年生のとき、祖父は、内臓を患い他界しました。骨上げのとき、火葬場の係の方が、頭蓋骨の一部を指さして言いました。

「おじいさんは、脳に何か病気を持っておられたのですか。」

私たち家族は、息を呑みました。頭蓋骨の内側の一部が茶褐色になっていたのです。係の方のお話しでは、内出血の痕跡とのこと、そこは、港での事故でトラックにぶつかった後頭部に違いありませんでした。伯母が、

「おじいちゃん、我慢してはったんやわ…。」

とつぶやいて、はらはらと涙を流しました。祖父は、最期まで身を持って「ゆるす」という大切な人間の知恵を教えてくれた、本当に「大きな人」でした。

 

12年前、当時勤務していた府立高校の卒業文集に、私は、「批判精神」の問題点を意識して、こんな文章を書きました。

 

『夢を軽蔑するものは、軽蔑に価する夢しか持つことが出来ない』

本来は、「夢」の部分が「政治」になっているトーマス・マンの言葉です。

薄っぺらな「笑い」が横行する今の世の中では、何でもかんでも茶化してギャグの種にしてしまうことがあります。しかし、そこには、ほんとうに大切なものまでも笑いとばしてしまう落とし穴があります。これは、自ら夢を放棄する行為にほかなりません。

頭でっかちな「批判精神」が横行する今の世の中では、何でもかんでも「あら探し」をしてダメだと切り捨ててしまうことがあります。しかし、そこには、ほんとうに大切なものまでも否定してしまう落とし穴があります。これも、自ら夢を放棄する行為にほかなりません。

混迷している時代だからこそ、笑われようとも大切なもの・完全ではないけれども大切なものを、しっかりと見つめ続ける姿勢が必要だと思います。

世間(現実)に埋没するのではなく、かといって世間(現実)から遊離するのではなく、自分の夢を見つめていってください。

 

「批判」や「異議申し立て」を軸に据えた文化は、紛れもなく私たち世代が作りあげてきたものだと思います。だからこそ、その文化が生み出した弊害は、私たちが責任を持って解決していかなければならないと思います。

 評論家の加藤周一さんは、<知識人であることが批判的であることを意味するとしたら、その批判はまっさきに自己批判でなければならない>と言っておられたそうです。他者を「批判」する際には、まずベクトルを自分の内面に向け、「批判」のバックボーンを見つめ、単なる<怒り・恨みつらみ・やっかみ・ルサンチマン>などに基づくものではないかを自己点検する、このような姿勢こそが、本当の健全な「批判精神」だと思います。

簡単に「ゆるす」ことは「社会悪を見逃す」ことではないのか…という反論があるかもしれません。けれども、私は、「社会正義のためには寛容は無用である」というような発想では、決して真の意味での問題の解決には至らないと考えています。

 大杉栄は、

「運動の理想は、そのいわゆる最後の目的の中に自らを見出すものではない。理想は常にその運動を伴い、その運動とともに進んで行く。理想が運動の前方にあるのではない。運動そのものの中にあるのだ。運動そのものの中にその型を刻んで行くのだ。」

と語っています。

自分は「守られるべき善人」で相手は「叩かれても当然の悪人」というような思い上がった人間観に基づく<一方的で情け容赦ない攻撃>や<際限のない要求>ではなく、誰もが光と闇を抱える人間なのだから、お互いに「パーフェクトではない」と認め合い、相手への批判は同時に自己へもはねかえってくることを自覚しつつ、「批判」を通じて相互の対話が深まるような営みを積み重ねていく中でこそ、<人と人が本当の意味で出会い、共に生きていく関係>に至ることができるのではないかと思います。

入学式の式辞で紹介した、司馬遼太郎さんの「自分に厳しく、相手にはやさしく」という言葉も、「ゆるす」ということと関連づけながら考えると、より深い意味を感じる今日この頃です。