所長だより036 「新学長」

2015年12月2日

 所長だよりで何度かご紹介した、本学の副学長・理事の山下一夫先生が、次期学長に着任されることになりました。現学長の田中雄三先生が、本年度末を持って任期満了を迎えられるので、この間、候補者お二人の選考が進められてきましたが、1130日、学長選考会議において、山下先生が最終学長候補者に選出され、公表されました。

 山下先生と私は同じ大学出身で、山下先生は2歳年上ですので、私が1974(昭和49)年に入学した1回生の時に、3回生でいらっしゃったと思います。けれども、学年も学部も異なっていたので、当時は、後に深いご縁をいただくことになるなど知る由もなく、たぶん、キャンパス内ですれ違ったりしたこともあっただろうとは思いますが、「山下先輩」の存在は知りませんでした。

 月日は流れ、1992(平成4)年度~1993(平成5)年度に、私は現職教員として、大阪府教育委員会から鳴門教育大学大学院(生徒指導コース)に派遣され、2年間の研修を行う機会をいただきました。そのときにご指導いただいたのが、山下先生でした。ちなみに、現在の私の研究室が以前の山下研究室で、ときどき、この部屋でゼミ指導をいただいたことを思い出すことがあります。

 私が鳴門教育大学での研修を希望した背景には、大きな挫折体験がありました。

 私の大学(文学部国史学科)の卒業論文は、アイヌ民族に対する近代の同化政策をテーマにした「北海道『旧土人』教育政策について」でした。そして、今振り返ると、若さゆえのストレートすぎる力み・怒りを感じないわけではありませんが、「“マイノリティの論理”から“マジョリティの論理”を問い直す」「“辺境”から“中央”を捉え直す」という発想から研究に取り組みました。また、入学した1974年の1031日に東京高等裁判所で「狭山事件」の判決(いわゆる寺尾判決)が出された時には、文学部1組の学友たちとお金を出し合って、クラスの代表を東京に送り出しました。さらに、所長だより027で書いたように、学生時代から、韓国の被爆者を支援する市民運動にもかかわりました。

 そんな経験から、教員に採用されてから、私は自然と、生徒会や教育相談などと共に、同和教育・人権教育の係を担当することが多くなりました。

 教職に就いて10年が経過しました。同和教育の主担を務めておられた先生が、3年間担当されたということで、新たな主担を決める選挙が行われました。私は、すすんで主担になりたいと思っていたわけではありませんが、おそらく自分が選ばれることになるだろうなと思っていました。けれども、ご承知のように、一般的に同和教育の在り方を巡っては、学校現場の教員の間に大きな意見の違いがありました。当時の私の勤務校は、風通しの良い、教員集団の協働性が息づいていた職場ではありましたが、この問題に関しては、やはり、合意を形成することは容易ではない状況でした。選挙結果が開票されると、私と、10歳ほど年上のA先生の決選投票となりました。同和教育に関する私の姿勢に賛同できないと考えられた先生方が、A先生に投票されたのでした。ただし、A先生ご自身は、同和教育・人権教育に特にお詳しいわけではなく、開票直後には、「どうして自分に票が入るのか」と怪訝な表情をしておられました。おそらく、私の考え方に批判的であった何人かの先生方が、同和教育・人権教育に関わってこられたわけではないけれども温厚で人望のあるA先生に票を集中すれば、少なくとも私を主担にすることは防げると考えられたのだろうと思います。そして、決選投票。結果、僅差でA先生が同和主担に選出されました。

 大きな衝撃を受けました。なりたいと思っていたわけではありませんでしたし、なったらなったで30代半ばだった自分に、初めての主担(ミドルリーダー)としての役割が務まるのだろうかという不安もありました。それでもやっぱり、普通に考えたら自分しかいないじゃないかという自負も持っていました。この役割を担うことが、教師としての私の存在証明であるとも思っていました。けれども、結果はNOでした。

 ある先輩の先生は、「阿形、気にするな。政治的な思惑のやりとりの結果や。お前に対する評価がどうだこうだという問題とは違う。」と声をかけてくださいました。けれども、私は、そうは受け取れませんでした。私の考え方に反対されていた先生方の「組織票」はそんなに多かったわけではありません。ということは、同和教育・人権教育に特段の意見をお持ちではない先生方が、少なからず、「同和教育・人権教育に詳しい阿形」よりも「温厚なA先生」を選択されたということに他なりません。もっと言えば、私自身が自分の「強み」だと思っていたことが、同僚の先生方から信頼をいただくことにつながっていないという事実を突き付けられた出来事でした。私の自負は粉々に砕け散りました。

 そう言えば、同じ年頃の同僚に、「鋭いけれども、もろく、人を傷つける」という意味で「ガラスみたいやなあ」と言われたこともありました。今だったら、「お前に言われたくないわ」と切り返すことができますが、当時は、表向きは笑いながらも、結構心に突き刺さりました。

 このまま、この学校に居るのは辛い、恥ずかしい…。選挙の後、傷心の私は、校長室に行きました。そして、転勤したいと校長先生にお願いしました。けれども、当然のことながら、単なる一個人のいきなりの希望・わがままに、校長先生は首を縦に振ることはありませんでした。

 そんな折、その年から鳴門教育大学に派遣されていた知人が「阿形さんも来ない?」と声をかけてくれました。渡りに舟の言葉でした。今のままでは「自分の声は本当の意味で他者に届かない」「自分は人に信頼され任せられる存在になれない」、だから、鳴門に行って、何としても、自分を見つめ直したい、仕切り直したい、そう思いました。

 府教委の大学院派遣者の選考は20倍強の狭き門でしたが、幸い、私は派遣していただけることになりました。そして、鳴門教育大学大学院生徒指導コースの面接の日を迎えました。面接官の中には、山下先生もいらっしゃいました。府教委に推薦されての派遣なので、よほどのことがない限りは不合格になることはないのはわかっていましたが、私は何としても鳴門に行きたい、自分を仕切り直す時間が欲しいと思っていたので、緊張しながら、「不登校生徒を支援する知識やスキルを学んで大阪府の教育相談の充実に寄与したい」という趣旨の志望動機を話しました。すると、山下先生は、こうおっしゃいました。

「まあ、固い話は別にして…、単身で来られる予定ですか?それとも家族で来られますか?」

ちょっと拍子抜けしました。「固い話は別にして」って、ここは「固い話」をする場面じゃないの?と思い、何だかおかしく思えました。

「家族で来るつもりです。」

と答えると山下先生は、続けて、

「先生方は、きっと、現場で、神経をすり減らしておられると思うから、まあ、鳴門での2年間は、ゆったりと過ごされたらいいと思いますよ。」

とおっしゃいました。傷心を癒やしたいと思っていた私は、何だかホッとして、思わず落涙しそうになりました。そして、山下先生は続けてこうおっしゃいました。

「ただし、生徒指導コースに来られて、その後、現場に戻られるときは、『あの先生は理屈はいろいろ言うけれど、何だかついていけない…』ではなく、『何を言ってるのかよくわからないけれど、あの先生が言うのだったら…』と思われるような先生になってくだいね。」

とおっしゃいました。もちろん、山下先生は、私が鳴門に来た経緯をご存じではありませんでしたが、私が直面していた課題に見事につながる言葉でした。本当にそうだ、頑張ってそうなろうと思いました。今になって考えると、「意識レベル(理屈)だけでなく、無意識レベル(感情)においても、他者とつながり他者と関係を深める存在になりなさい」というメッセージだったようにも思います。

 2年間の院生生活を終え、1994(平成6)年、私は大阪の学校現場に戻りました。そしてさらに10年の月日が流れ、私は教頭になりました。ある時、私を慕ってくれていたある教員が、「教頭先生は、自分では理論派だと思ってはるやろうけど、そうじゃないですよ。ぼくらは、理屈ではなく、阿形教頭が言うてはるのやったらしゃーないよなあと思ってるんですよ。」と言ってくれました。本当に嬉しく思いました。山下先生からいただいた「宿題」を、10年の時を経て曲がりなりにも何とかやり終えた気分になりました。そして、決選投票の挫折は、その後の自分の歩みにとって必要であった出来事として、ようやく自分の中に納まりました。

 所長だより002で書きましたが、社会心理学者の三隅二不二さんは、リーダーシップ論「PM理論」で

P機能(Performance function、集団目標達成機能)

M機能(Maintenance function、集団維持機能)

の両機能を合わせ持つことの大切さを提唱されました。現在、教員養成系大学の大学運営は、さまざまな厳しい課題に直面しています。文部科学省からは、成果主義の考え方に基づく厳しい要求が突き付けられています。そんな状況だからこそ、P機能をきちんと踏まえつつ、M機能をいつも心に持っている学長こそが、本学には今、必要なのだと思います。そんな役割を果たすことができるのは、山下一夫先生しかいらっしゃいません。きっと、来年度からは、大学の教職員の方々が、ちょっと何言ってるかわからない(サンドウィッチマンのギャグみたいですが…)面もあるけれど山下学長がおっしゃるのだったら…と、力を合わせて本学の発展のために取り組んでいく新たなうねりが生まれるに違いないと私は思っています。