所長だより030 「団欒」

2015年10月21日

 

 先週1015日に本センター研究員の竹口先生と二人で北海道教育大学を訪問し、生徒指導・いじめ問題等をテーマに、教職大学院の瀬戸健一教授、院生5名の方々と協議を行ってきました。

 

 出張中の食事は、北海道の味を堪能しました。札幌駅前の「味処あずま」、このお店の前身は、中島みゆきの『店の名はライフ』(1977年)に登場する喫茶店「ライフ」で、以前から一度は訪れたいと思っていました。中島みゆきも食したと思われる豚丼、美味でした。この他、二条市場のお店で食べた海鮮丼も美味でした。

 

 美味しく感じたのは、料理のポテンシャルの高さもさることながら、竹口先生とあれやこれや歓談しながらの食事であったことも関係していると思います。センターのオフィスでもときどき雑談を交わすことはありますが、出張先の解放感もあって、いろいろなことに話が膨らんで、素敵な一時を過ごすことができました。

 

 竹口先生は、私の発した言葉が何一つはね返されずに受け止めてもらえているのが実感できる方なので、私の言葉も弾みます。人の話を聴くことが本当に上手な方だと思います。ただし、それは決して臨床心理士としてのテクニカルな問題ではないと思います。当然のことながら、私は竹口先生にセラピーを求めているわけではなく、竹口先生も私をクライエントとして見ておられるわけではありません。竹口先生は、カウンセリングという枠組みを超えて、「言葉の名キャッチャー」だからこそ、私も安心して、直球だけでなくクセ球・荒れ球も含めて言葉をどんどん「投げる」ことができるのだろうと思います。

 

 コラムニストの木村隆志さんが、あるニュースサイト(10/8 NEWS ポストセブン)で、「ダウンタウンの聞く技術 お騒がせ有名人が思わずしゃべる訳」という興味深い文章を書いておられました。木村さんは、松ちゃんと浜ちゃんの「聞く技術」のポイントを、以下のように述べています。

 

 

 

 1つ目は、相手の話に対するリアクション。2人は話の流れを止めずに受け止めるため、“あ行”を中心にしたリアクションを取っています。声として発しているのは「あっ!」「いやいや」「うわっ~」「えっ?」「お~」だけですが、これくらいシンプルな方が、ゲスト出演者は気をつかわずに話し続けられるものです。

 

 2つ目は、どこか他人事のような、ひとり言のような聞き方をしていること。「〇〇なんじゃないの?」「〇〇ってどういうことなん?」などと聞いた上で、その返事に「そうなんだ」「へえ~」と返すなど、向き合い過ぎないことで深刻な話をしやすいムードを作っています。実際、中島知子さんは洗脳騒動、加護亜依さんは喫煙騒動についてスラスラ話していました。

 

 3つ目は、

 

 4つ目は、立ち位置の微調整。2人には相手の話に「分かるわ」「そりゃそうだよな」などと共感の言葉を返し、素の表情をサラッと見せるなど、同じ目線で聞こうとしています。「大物」ではなく、「親」「中年」「いちタレント」「一人の男」など、相手に合わせるように立ち位置を変えているのでしょう。

 

 

 

 竹口さんは、私にとって、ダウンタウンのような名司会者なのかもしれません。北海道で、食事を共にしながら、言葉のキャッチボールを行うことは、楽しく大切な団欒の時間でした。

 

 北海道教育大学で、ある学卒院生の方が、「子どもの気持ちを考えたい」というテーマでプレゼンテーションをしてくださいました。彼は、実習中に、担任の先生が「給食の片づけが汚い」ということで「今日の昼休みはなし。給食の片付けについて話し合いなさい。」と指導する場面に直面します。彼は、自分が小学校のときは休み時間がいちばん楽しみな大切な時間だったことを思い出し、子どもたちが少しかわいそうに感じたと言います。ところが、自分が授業を担当させてもらった時に、「ここまでは進みたい」「ここが大切だから」との思いから、授業を休み時間まで延長してしまいます。彼は、そのことを振り返って、これ以降、「子どもに大人の都合を押し付けていないか」と自問し続けます。そして、たとえばその学校で昼休み前に行われている「全員清掃」についても、「協力する良さを学ばせたい」等の教師の思いもわからないわけではないが、子どもたちが「どうして全員で掃除するの?」「早く遊びに行きたい」と思っていることも感じとり、全員清掃の指導方針も「子どもに大人の都合を押し付けていないか」と考えていると言いました。

 

 彼が問題提起した「全員清掃」の話しから、私は「無言給食」の指導のことを連想しました。

 

 最近、複数の小学校の話しとして耳にしたのですが、給食の時間中は私語はすべて禁止で無言で粛々と食べる「無言給食」を指導方針にしておられる学校があるそうです。

 

私は、小学校の勤務経験はありませんし、「給食時間の乱れが学級崩壊につながる」という経験則から生まれた指導であるとのお話しも聞いていますので、状況や経緯を抜きに一方的に批判するつもりはありません。けれども、やはり「無言給食」はどうしても共感することが難しいです。味気ないように思います。「子どもに大人の都合を押し付けていないか」とも思います。

 

食事を共にしながら、言葉のキャッチボールを行うことは、楽しく大切な団欒の時間です。そんな子どもの(人間の)論理を、秩序や規律の崩壊への不安からの管理・抑圧によって捨て去ってしまっていいのだろうか、そんなことを、一度、現場の先生方とディスカッションしたいと私は思っています。