所長だより018 「キラキラネーム」

2015年7月29日

 『生徒指導提要』では、生徒指導とは「一人一人の児童生徒の人格を尊重し、個性の伸長を図りながら、社会的資質や行動力を高めることを目指して行われる教育活動」であると定義されています。この定義について、私は最近、“人格・個性”と“社会的資質や行動力”が併記されていることがとても大切な意味を持っているのではないかと感じています。併記されているということは、「両者の統合・調和の重要性」「一方に偏る考え方の危険性」を示しているのだと理解することができます。

 “人格・個性”と“社会的資質や行動力”という問題は、「個人と集団」「住民と地域」「国民と国家」「自と他」「私と公」という問題とも関連しています。たとえば、戦前と戦後の「私と公」についての考え方を概観すると、滅私奉公という言葉に象徴されるように戦前は「私<公」であったのに対し、戦後は「私>公」であると言えるかもしれません。

 『生徒指導提要』は、「一人一人の児童生徒の人格を尊重」するという言葉で始まり、「社会的なリテラシーの育成」というテーマでしめくくられています。「社会の形成者としての資質の涵養」が最後に強調されているのは、戦後の「私>公」の偏りという問題意識があったのかもしれません。本学の特任教授で日本生徒指導学会の会長も務めておられる森田洋司先生は、『生徒指導提要』が策定された背景に「私事化(privatization)」という社会の動向があると指摘されています。私事化とは

 人々の関心が、公共性や共同性から後退し、

 私生活とその中核に位置する『私』に重きを置いていく社会意識の変化の動向

 ≪森田洋司(2010)「『生徒指導提要』とこれからの生徒指導」生徒指導学研究第9号≫

のことです。私事化(privatization)の傾向について、森田先生は、「個々人の幸福や、その人らしさを大切にする価値観が登場してきたことは歓迎すべきこと」であるけれども、一方でそのネガティブな側面として、「社会や集団への関わりが弱まり、私生活へと隠遁する傾向が強まること」を指摘されています。(前回の所長だよりで書いた『神田川』の「あなたの優しさが怖かった」とは真逆の考え方ですね。)

 私は、私事化(privatization)の問題点を考える材料として、いわゆるキラキラネームをとりあげることがあります。最近は、育児雑誌等の影響もあって子どもさんにキラキラネームをつけておられる方も少なくないので、講演等では、誤解のないように、「我が子の名前を決めるのは基本的には親の自由・権利である」「子どもの将来・運命は名前で決まるわけではない」ということをお断りしたうえで、キラキラネームの問題点に言及しています。

 キラキラネームとは、昔はなかったような珍しい名前、漢字の読み方が難しい名前ですね。たとえば、牧野恭仁雄さんの『子供の名前が危ない』(2012)には、

   万愛鈴  叶恋  富束  乃樹  空翔

などの名前が紹介されています。私は、どれも読み方がわかりませんでしたが、皆さんはどうでしょうか。ちなみに、これらの名前の読み方は、

   まありん  かれん  ふたば  ないき  つばさ

だそうです。

 このようなキラキラネームを選ばれた親御さんは、

   *個性・イメージを重視

   *他者への「わかりやすさ」より「ユニークさ」重視

   *子どもらしい「かわいさ」を重視

という考え方に立っておられるのでがないかと私は思っています。言い方を変えると、「命名における私事化の傾向」と捉えることができるかもしれません。

 昔の名前は、親や祖父・祖母などの名前から一字を受け継ぐ「通字(とおりじ)」がよく見られました。これは、家系を重視する考え方と関係していたと思われます。また、南総里見八犬伝の八犬士が持っている玉にある「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の文字も、昔は名前によく使われました。これらは、儒教における徳性であり、命名の際に世間性・道徳性が重視されたからではないかと思われます。

 女の子の名前も、敬称の接尾辞である「子」がつく名前は、近年、どんどん少なくなってきています。何とも大胆なタイトルの本ですが、「<子>のつく名前の女の子は頭がいい」(金原克範、2001)という興味深い本があります。金原さんは、東北のある市の私立高校10校のデータを基に、「子」のつく名前の女の子の割合と学力の関係を分析されました。1965年の段階では、どの高校も「子」のつく名前の女の子の割合は80%以上と高い数値になっています。そして、その中でも、80%台前半の高校もあれば80%台後半の高校もありますが、この割合の違いと学力の相関関係は見い出せません。ところが、1992年の段階では、「子」のつく名前の女の子の割合は下がり、高い高校でも40%後半、低い高校では30%台前半となっています。そして、注目すべきは、「子」のつく名前の割合が全体として下がる中で、その割合がまだ比較的髙い高校ほど学力が高いという相関が認められるのです。

 金原さんは、その理由については言及されていませんが、命名に表れる親御さんの価値観が関係しているのではないかと私は思っています。単純化して言えば、「個性的・ユニークさ・かわいらしい子どもの名前」を重視する“私”を軸にした発想なのか、あるいは「一般的・オーソドックス・立派な大人の名前」を重視する“公”を軸にした発想なのかという違いではないかということです。これは、「私のかわいい子ども」という見方と、「いずれは自立し社会の一員になっていく人間」という見方の違いと捉えることもできます。

 命名の文化の中にも、「私と公」の問題が反映されているのかもしれませんね。ユニークで珍しい“only one”の名前は、他者にとっては「読めない」「わかりにくい」名前です。そうであるなら、“only、個性”への過剰なこだわりは“lonely、孤独”にもつながっているのではないでしょうか。

中島みゆきさんの名曲『糸』、歌詞の最後は

    縦の糸はあなた 横の糸は私

    逢うべき糸に 出逢えることを

    人は しあわせと 呼びます

となっていますが、「しあわせ」の部分は、「幸せ」ではなく「仕合せ」と書かれています。昔は、人が他者とお互いに何かをやり合うことを「為合(しあ)う」「仕合(しあ)う」と表記したそうで、「試合」も元は「仕合」だったそうです。そうであるなら、本当の「しあわせ」とは、“わたしの物語”の中だけで完結するものではなく、“みんなの物語”とも絡みあってこそ実現できるものであるということなのかもしれませんね。