所長だより012 「受苦的かかわり」

2015年6月17日

高知県での講演でアンパンマンを引用してお話ししたのは、一つには、所長だより002で書いた「愛と勇気」というテーマですが、もう一つは、「受苦的かかわり」というテーマです。

アンパンマンは、お腹を空かしている人に、「ぼくの顔をお食べ」と自分の顔を差し出すことがあります。やなせたかしさんは、

  ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、

そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです。

≪やなせたかし(2013)『わたしが正義について語るなら』≫

と述べておられます。

 私は、以前、校長を務めていた時に、「校長室だより」でこんな文章を書きました。

 No pain, No gain という言葉があります。一般的には「苦労なくして、得られるものはない」などと訳されますが、教師と生徒のかかわりという点で考えると、「労を惜しみ、自分に何らかの負荷がかかる(自分も傷つく)ことを避けていては、生徒との関係性など成立しない」というような意味、「受苦的なかかわり」の大切さを示す言葉として解釈したいと私は思っています。そして、私たち教師が指導に迷った時には、「エネルギーをより多く必要とする指導方法を選ぶ」ということがひとつのヒントになるのではないかと思っています。

高知での講演でも、アンパンマンをヒントに、“自分も傷つくことによって相手を癒す”という「受苦的なかかわり」の意味をお話ししました。A先生のかかわりも、見事な「受苦的かかわり」でした。裏返して言えば、「受苦的ではないかかわり」とは、マニュアル・規則・上司の指示・正論などの「自分の外にあるもの」に依拠した、自分の主体が問われることのない、自分が傷つくことのない指導ということになります。

「正論に依拠した指導」の問題点について、山下一夫先生は、「現実を無視した正論や生徒が実行不可能な正論を吐き、常に自分が正しくて安全な立場にいる教師の方が楽である」≪山下一夫(1993)「生徒指導における3つの立場と基本的態度」『鳴門教育大学研究紀要(教育科学編)』第8巻≫と指摘しておられます。私が勤務したある高校では、このような指導を“言い置き指導”(正論だけ言い置いて『後は君の努力の問題だ』等と言い放つ指導)と呼び、そうなることを自戒する文化がありました。河合隼雄先生と小説家の小川洋子さんとの対談では、「頑張れよ」という言葉の問題点に言及されています。

小川:日常の中で、何気なく人を励ましてるつもりでも全然励ましたことにはなってなくて、むしろ中途半端に放り出してるってことがあるんでしょうね。

河合:それはつまり切っているということです。切る時は、励ましの言葉で切ると一番カッコええわけね。「頑張れよ」っていうのは、つまり「さよなら」ということです(笑)。

小川:「私はここで失敬します」ということですね。

≪小川洋子・河合隼雄(2011)『生きるとは、自分の物語をつくること』≫

 また、河合先生が、よく例にあげられる、こんなお話しがあります。

  学校へ行かない子どもを連れて相談にきた親が、「現在は科学が進歩して、ボタンひとつ操作するだけで人間が月まで行けるのです。うちの子どもを学校へ行かせるようなボタンはないのですか。」と言われたことがある。これだけ科学が発達しているのに、ひとりの子どもを学校へ行かせるだけの「科学的方法」はないのか、というわけである。

≪河合隼雄(1992)『心理療法序説』≫

もちろん、そんなボタンなどどこにもありませんし、大切なのは、この父親が、我が子の直面している問題を自分も引き受けて一緒に考える(苦悩する・傷つく)ことなのだろうと思います。

ところで、この父親がおっしゃった「科学的方法」とは何でしょうか。「科学的な考え方」とは客観性を重視する特徴がありますが、哲学者の中村雄二郎さんは、近代科学の客観性は「主観と客観」「主体と対象」の分離・断絶を前提としていると述べておられます。たとえば、顕微鏡で何かを観察するときには、観察者の個人的な感情はできるだけ排除して、冷静に客観的に観察するというような考え方です。しかし、中村雄二郎さんは、「このような事物の捉え方のもとでは、客観や対象とは、主観や主体の働きかけを受け被る、単なる受身のもの、受動的なものでしかない」と指摘されています。≪中村雄二郎(1992)『臨床の知とは何か』≫

「客観や対象」を「我が子・児童生徒」、「主観や主体」を「親・教師」と置き換えると、科学的な考え方が、かえって「受苦的かかわり」を遠ざけてしまう落とし穴を持っていることがわかるのではないかと思います。河合先生は、先ほどの「ボタン」の話しについて、「ここで『科学的』方法に頼るとするならば、父親と息子との間に完全な『切断』がなくてはならない」ことになり、関係性を「切断」され「操作」の対象と見られる人は、孤立の状態に陥ると述べておられます。そして、

  現代は孤独に悩む人が多いが、そのひとつの原因として、自分の思うままに他人を動かそうという考え方に知らぬ間にのめり込んで、結局のところは人と人との「関係」を失ってしまっていることが考えられないだろうか。

と指摘されています。

 自分の顔を差し出すアンパンマンの在り方は、教育における「関係性の回復」のための「受苦的かかわり」の意味を考えるヒントになるのではないでしょうか。