所長だより008 「集団討論」

2015年5月20日

 公立学校の教員採用試験の出願時期が近づいてきました。受験する学生・院生たちは、筆記試験の勉強や面接・模擬授業の練習等に取り組んでいます。先日、私も、院生の集団討論の指導を行いました。そして、「自分の意見をほど良く主張すること」と「他者の意見をしっかりと聴くこと」の観点から、助言を行いました。

  *積極性やリーダーシップも大切だけれども、自分ばかりしゃべりすぎないように…。

  *他者が発言している時は、耳を傾けて大切に聴くという態度で…。

  *異なる意見を言う際は、他の意見へのリスぺクトを忘れずに…。

  *他者に質問する時は、自分の意見を添えたうえで…。

 助言をしていて、私は、中野民夫さんが『ワークショップ―新しい学びと創造の場―』(2001年、岩波書店)の中で書いておられる「トーキング・スティック」のことを思い出しました。中野さんは、サンフランシスコの大学院を訪問された時に、「サークル」という自由な話し合いのスタイルが強く印象に残ったそうです。参加者は、円・輪になって座ります。

普通の教室スタイルで人の背中越しに発言者の話しを一方的に聞くことになれていると、一重の輪になって座ることはなんだか全身がむき出しになった感じで、初めは居心地がよくない。でもその場の雰囲気を作るのは、一人ひとりなのだ。誰が上でも下でもなく、よくも悪くもその場を作る責任と権利は一人ひとりに等しくある。今自分がこの輪の一部を担っているという自覚が促される。

輪の中心には「トーキング・スティック」という木の棒が置かれます。そして、ルールはただ一つだけ、発言する際はその棒を手にすること。このようなスタイルは、ネイティブ・アメリカンの伝統だそうです。このルールによって、必然的に、棒を持たない者は発言することができず、その結果、発言者以外が傾聴する文化が生まれます。また、特定の人間がしゃべり続けることは、棒を長時間独占する行為として明確になるので、みんなが平等に発言する機会が保障されるのかもしれません。

  この棒一本で、雰囲気ががらりと変わる。途中の介入を控え、お互いを深く聴きあうことで、場がずっと 深まる。誰でも自分の話したい話しを最後までしっかり聴いてもらえるのはうれしいし、さえぎられない安心感があると落ち着いて自分の意識や気持ちの深いところを探りながら丁寧に話せるようになる。また、よく聴いてもらうことで、今度は他の人が話すときはじっくり聴く気持ちになる。

 集団討論の練習で助言しているうちに、学生や院生に理想を語るのは容易いけれども、ふと、自分自身が経験してきた学校現場や大学での会議を振り返って、「サークル」ような話し合いができていたかという点では甚だ心もとない気がしてきました。「ダラダラした話はわかりにくいので、発言は要点をまとめて簡潔に」という自覚がもう少し自分にあれば、「しゃべりながら考える」というような愚を犯すことも防げたかもしれない…、「自分がしゃべるということは、会議の他の構成員の人の時間を頂戴すること」という自覚がもう少し自分にあれば、「ムキになる」こともコントロールできたかかもしれない…、そんなことが頭をよぎりました。また、逆に、自分自身のモチベーションがあまり高くない会議では、一言も発言せず(トーキング・スティックを一度も手にせず)、他者の意見を聞き流していることにも改めて気づきました。そう考えていたら、助言した言葉が、そのまま自分自身に返ってくるような気がしました。

 集団討論を行った院生たちは、基本的には「ほど良い自己主張」「他者への傾聴」の自覚が垣間見られました。私は最後に、「今、皆さんが集団討論を行った際の姿勢を、教員採用試験対策で終わらせずに現場に出ても決して忘れないようにして、君たちが良い話し合いの文化を率先して作っていってくれたら、本当に素敵なことだと思う。」とコメントしました。

 職員会議等の学校の会議の実態を、「会して議せず、議して決せず、決して行わず」と辛辣に批判した言葉を耳にしたことがあります。悔しいけれども、一理あるような気もします。(ただし、このような「会議の形骸化」の問題は、学校だけでなくすべての組織が孕んでいるものだとは思いますが。)

 以前に私は、形式化した多数決制や、議論もなく原案通りに決められる会議の進行が、

  *多数決制等が内的な葛藤・他者との葛藤を回避する「楽」な手段でもあるので、深い思索や洞察、深い相互のやりとりの機会を奪ってしまうことがある。

     *「多数決で決めた…」「みんなで決めた…」という「合理性」の名の下に、自己責任を解除しやすい。

という側面を持っていると感じ、「葛藤を避けず自己責任も解除しない会議の在り方」について同僚と話し合ったことがありました。生徒指導提要でも、「組織的な生徒指導」「教職員一人一人の生徒指導に対する当事者意識」の重要性が指摘されています。それを実現するヒントは、集団討論の要点の中にあるのかもしれませんね。