所長だより006 「ハーモニー」

2015年5月7日

 前回の所長だよりで、二宮尊徳の「可愛くば、五つ教えて三つ褒め、二つ叱って良き人となせ」という言葉をご紹介しました。先日来、「叱る」ことの意味を考え関係図書を改めて読み直していて思い出したのですが、これは、尊徳の原著で知ったのではなく、兵庫教育大学名誉教授の上地安昭先生が、『体罰からの脱却を図る「叱る生徒指導」の意義と実践』(日本生徒指導学会機関誌「生徒指導学研究」第12号、2013年)で言及されているのを見て、授業で活用した次第です。ちなみに、上地先生がこの中で述べておられる「3分間叱責法」訓練モデル等は、現場での生徒指導力育成に直結する興味深いものです。ぜひご一読を。

 さて、生徒指導における「規律指導と教育相談」「厳しさと優しさ」などの問題について、私は授業でこれまで、「不二」「統合」等の言葉で“どちらも大事”ということを示してきましたが、最近、「ハーモニー(調和)」という表現のほうがいいかなと考えたりしています。

 「統合」という考え方は、私が学生の頃には、ヘーゲルの弁証法の概念である「止揚」(aufheben アウフヘーベン、矛盾する要素が互いの対立の過程を経て発展的に統一されること)という言葉で言い表されていたのだろうと思います。でも、「止揚」も「統合」も、実感を伴って理解できる言葉ではありませんね。また、「止揚」「統合」などと口にすると、何か、問題が簡単に、高度に解決されたような気分になってしまいますが、そのプロセスは本当は過酷で困難なものであるでしょう。さらに、”両方大事”と言うのは容易ですがよく考えると、「厳しさと優しさ」というテーマをとってみても、具体的なある一つの場面では、「厳しさ」か「優しさ」のどちらかひとつの対応を選びとることになるものではないかと思います。スイッチヒッターも、1回の打席で左右両方のバッターボックスに入るわけではありませんものね。

 昔、喜納昌吉&チャンプルーズの名曲「花〜すべての人の心に花を〜」を聴いていて、“泣きなさい、笑いなさい…”の歌詞の部分になったとき、当時小学生だった私の息子が、大阪の子どもらしく「どっちやねん」とツッコミを入れ、大笑いしたことがありました。確かに、「泣きながら笑う」「笑いながら泣く」というような場面は、日常ではあまり生じないものでしょう。(ただし、深い体験をしたきは、そんな状況になる時も稀にありますね。2005年に、大好きだった桂枝雀さんの七回忌追善落語会に行ったときのこと、当人がいない落語会にもかかわらずホールは満席で、ビデオで登場した枝雀さんには万雷の拍手、“つる”の話しが終盤にさしかかる頃には、みんながお腹を抱えて笑いながら頬を涙で濡らしていました。)

 そう考えると、「統合」「止揚」というような表現よりも、「使い分け」あるいは「役割分担」という文脈で考えるほうがわかりやすいのかもしれません。また、河合隼雄さんは、鷲田清一さんとの対談で、「統一する」ことにこだわるのは西洋的な発想だと指摘されています。

   …西洋人は多様をインテグレートすることを考える。…われわれ日本人はハーモニーだと思うてる。インテグレートはされてなくても、ハーモニーがある。…日本人には、調和の感覚は美的感覚としてありますわね。…向こうは一神教でしょ。だからやはりインテグレーションと言いたいし、どこかに一なるものがあるんですよ。…こちらの場合は一なるものがなくて、いろいろあるんだけど、ハーモニーがある。

      ≪河合隼雄・鷲田清一(2003)「臨床とことば」≫

 “厳しさと優しさの調和”“規律指導担当の先生と教育相談担当の先生のハーモニー”、確かにこのほうが、何だかスッと入ってくるような感じもします。

 私は、いつか、私なりの生徒指導論と教育相談論を本にまとめたいと思っていますが、タイトルだけはすでに

『ひるまず、すごまず、生徒を諭すきびしくてやさしい生徒指導をめざして~』

『ためらわず、あまやかさず、生徒を支えるやさしくてきびしい教育相談をめざして~』

と決めています。まだ全く書いてはいませんが、「統合」ではなく「調和」というニュアンスで考えれば、もう少し気楽にペンが進むのではないかと思っています。