所長だより004 「ガラケー」

2015年4月22日

 私の携帯電話は、いわゆる「ガラケー」です。ですので、LINE(ガラケーでもできるそうですが…)などの携帯のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)によるコミュニケーションは行っていません。

 学部のゼミ生とSNSのことが話題になった時、ある学生が、しみじみと「高校の時にLINEがなくてよかった」とつぶやいたことがあります。そのこころは、「友人関係が今よりもっと複雑でナイーブだった高校時代にLINEがあったとしたら、きっと神経をすり減らしていたに違いない」ということでした。そして、今は自分もLINEを使っているが、正直言うと、時々、うんざりしたり、嫌になったりすることがあると話してくれました。

たとえば、「今日、ぼく、泣いた。」のような「慰めの言葉」を求めるメッセージ。もちろん、その相手が心配になり、思いやる気持ちが湧いて、レス(返信)するときもあるけれども、人によって、あるいは場合によっては、「そんなこと、オレは知らない」「お前だけが苦しんでいるわけじゃない」と言いたくなるときもあるそうです。けれども、送信したメッセージを未読のままで放っておかれたり、既読表示になっているのに返信が帰ってこないときの不安・孤独・不信・動揺・苛立ちもわかるので、どうしようかすごく葛藤するということでした。また、SNS上でのやりとりをどこでキリをつけて終えるかも難しい問題だそうで、他の学生からは、お互いに気を遣うあまり、どちらも疲れ切っていて本当はどちらも終わりたいのに、深夜まで延々とレスが続けられることもあると聞いたことがあります。

 私は思わず、「なんか、バカバカしいやん、それやったら、やめたらええやん。」と簡単に言ってしまいました。学生は「それが、そうもいかないんですよ…。」と言いました。私は、無頓着な「上から目線」の発言を反省しました。確かに、今の時代、知人・友人からLINE等への参加を求められた時に、断ることは容易ではないでしょう。学生の言うとおり、光と影の両面があることはわかっていても、現代社会では、SNSはいろいろな意味で手放すことができないツールになっているのだと思います。

 「生徒指導提要」(文部科学省2010年)は、「個別の課題を抱える児童生徒への指導」の項で、「インターネット・携帯電話にかかわる課題」をあげており、また、「ネット上のいじめ」にも言及し、「最近のいじめは携帯電話やパソコンの介在により、一層見えにくいものになっている」と指摘しています。そして、そんな状況を踏まえて、「情報社会やネットワークの特性の一側面として影の部分を理解した上で、よりよいコミュニケーションや人と人との関係づくりのために、今後も変化を続けていくであろう情報手段をいかに上手に賢く使っていくか、そのための判断力や心構えを身に付けさせる」情報モラル教育の重要性が示されています。

 私は、「ごめん、ごめん、そらそうやなあ、断ったり辞めたりするのは簡単なことじゃないやろうなあ…。」と謝り、「影の部分」を理解し「上手な使い方」を考えていくしかないよねと話し合いました。そして、「上手な使い方」のコツの一つは、「本当に大切なこと」はメールやLINEではなくフェイス・トゥ・フェイス(face to face)で伝えることじゃないかという話しになりました。五木寛之さんが『旅人よ』(1996)の中で紹介されていた「面授」という言葉も思い出しました。

現代人は人と人が直接に接することが非常に少ないのが特徴です。そんなときに、空海のいう「面授」というものが、どれほど大切かを思わないわけにはいきません。面授とは、顔と顔を向けあい、膝をまじえて何かを伝えることです。空海は密教を文書によって会得しようとする最澄に対して、「面授なくして仏教の伝授なし」という意味のメッセージを送りました。

また、時間を限定して、深夜まで延々とやりとりすることは避けることも大事だという話しになりました。「学業が疎かになる」というような理由だけではありません。本学の生徒指導講座の基礎を築かれた倉戸ヨシヤ先生が、「深夜に手紙を書いてはいけない」とおっしゃったことがありました。“深夜”とは、昼間には心の深い所に潜んでいるものが動き出す“魔の刻”でもあるので、本来、外に表出してはいけないことまで書いてしまうからだという趣旨であったように思います。夜中に恋人に書いたラブレターや、友に書いた人生を語る手紙…、白々と夜が明ける頃に読み直してみると、気恥ずかしくなって、投函することをやめたというような経験がある方もいらっしゃるのではないでしょうか。そんなことを考えると、24時間、手軽にコミュニケーションがとれるツールとは、本来は自分の内面に抱えておくべきことまで思わず滲み出てしまう危うさを持つものでもあると言えるかもしれません。

 「ガラケー」が「ガラパゴス・ケータイ」の略だと知って、イグアナやゾウガメでもあるまいし…と、最初はイラッとしました。でも、イグアナやゾウガメのように「独自の進化を遂げる」という意味で、むしろ、まだしばらくは、「面授」にこだわり、意固地になって「ガラパゴス」であり続けるのもまんざらではないと思ったりする今日この頃です。