所長だより003 「いじめ問題に本気で取り組む」

2015年4月15日

 鳴門教育大学には、本年(平27年)4月1日から、生徒指導支援センターと共に、「いじめ防止支援機構」が開設されました。「いじめ防止支援機構」は、平成22年度に設置された予防教育科学センターと、生徒指導支援センターで構成され、両センターの連携により「いじめ問題の克服に寄与する事業」に取り組む組織です。英語名は

Center of Organization for Research and Education about Bullying Prevention

で、頭文字をとってBP-CORE(ビーピーコア)と呼んでいます。

 「いじめ防止支援機構」の本年度の事業の中心になるのは、いじめ問題に関して特色ある取組を行っている、宮城教育大学・上越教育大学・鳴門教育大学・福岡教育大学の4大学による協働参加型の「いじめ防止支援プロジェクト(BP プロジェクト)」です。(詳細は、鳴門教育大学「BP-CORE」「BP プロジェクト」のウェブページをご覧ください。)

 このプロジェクトの発足式が、来週420日(月)に東京で開催されます。そして、いじめ問題に係る教育委員会や学校の教育力向上のために、今年度は、4大学の各地区で教育委員会研修担当者等を対象とした研修会を実施し、年度末に東京でシンポジウムを開催する予定です。本センターも、「いじめ防止支援プロジェクト」が実り多い取組となるように、精一杯、参加協力していく所存です

 ところで、本学「いじめ防止支援機構」のウェブページの「趣旨」のところに、

いじめ問題で子どもが一人で悩まないように、さらに教師も保護者も一人で悩まないように、周りの大人は本気で継続して関わらねばなりません。平成25年9月28日に施行された「いじめ防止対策推進法」は、学校、教育委員会、自治体、国など、社会全体がいじめ問題に対して本気で継続して関わるという宣言であり、そのための支援策と言えるでしょう。

という文章が書かれています。「本気」という言葉が二カ所に登場します。

 いじめ問題に取り組む「本気」とは、一体、何なのか…、私は、この「趣旨」の文章を読んで、そのことの意味を考えてみました。

 私は鳴門教育大学にご縁をいただく以前は30年間、高校の教員を務めてきました。学校現場では、「本気の教師」「生徒の本気」「教師と生徒の本気のかかわり」というような文脈で、「本気」という言葉はしばしば使われ、特にその意味を精緻に定義しなくとも、教師どうしで何となくニュアンスは共有できるものです。ただし、今の私は、学術的な専門性も引き受ける立場にあり、「何となくわかるよね…」で済ませるわけにもいかないので、授業では、「教師の本気」を考える鍵概念として、「authenticityオーセンティシティ」と「genuinenessジェニュインネス」を示しています。

 オーセンティシティとは、「信頼性」「信憑性」「確実性」「真正であること」などを意味する言葉です。私はこの言葉を、所長だより001でもご紹介した、京都教育大学の角田豊先生のご著書『生徒指導と教育相談』(2009)で知りました。角田先生は、「自主性尊重に名を借りた指導の怠慢で問われているのは、教師が子どもや保護者と関わっていく上での『本気さ(authenticity)』といえるのではないか」とし、「『本気さ』とは表面的なアクションが問題なのではありません。ここで述べる『本気さ』の意味は、対義語として『偽り』『見せかけ』『建前』という言葉を想定すれば、クリアになるのではないでしょうか。また、内面の思いと外に示される態度や言動との間のギャップが少ないことが、『本気さ』につながると考えてみればどうでしょうか。」と述べておられます。

 この後半の、「内と外のギャップの少なさ」という部分からは、クライエント中心療法Client-Centered Therapy)等で有名なカール・ロジャーズのgenuinenessジェニュインネスの概念が連想されます。ジェニュインネスとは、「誠実」「本物」「正真正銘」「偽りがないこと」などを意味する言葉です。ロジャーズは、『クライエント中心療法』で、カウンセラーにとって重要な3条件として「純粋性」「無条件の肯定的関心」「共感的理解」を挙げています。そして、「純粋性」について、ロジャーズは、「わたしがクライエントとの関係の中で真実(real)であるかどうかが問題です。他の言葉で表すならば、純粋さ(genuinenessということになるでしょう。また、わたしは自己一致(congruent)という言葉が好きです。」と述べています。

 以上の、「オーセンティシティ」「ジェニュインネス」という考え方を踏まえて、元に戻り、「いじめ問題に取り組む『本気』」とは何かを考えてみると、どうなるでしょうか。

 たとえば、いじめ問題がとりあげられるときに、「あってはならない」「人間として許されない」などの表現がなされることがあります。陰湿で執拗ないじめによる自殺などの事態に直面すると、私たちは誰もが、「純粋」に、「こんな悲しい出来事は二度と起こしたくない」と感じます。「あってはならない」「人間として許されない」には、そういう願いが込められているのだろうと思います。

けれども、そのような意図を理解したうえで、私はあえて、これらの言説の落とし穴を考えることにこだわっています。いじめをテーマにした小説を数多く執筆している重松清さんは、エッセイ集『明日があるさ』(2005)の中で、こんなことを書いておられます。

   教師という立場は、宿命的に、わかった”を求められてしまう。だが、浅薄な“わかった”よりも、深みにおりた“わからない”のほうが、ずっと意味があるはずだ。そして、“わからない”を受け入れたうえで、少年少女の生きているいまの現実を、批判するのはかまわない、ただ、否定してほしくはない。たとえば、いじめによる自殺などが報道されたとき、学校側のコメントとして「あってはならないこと」という表現がしばしばつかわれる。それを目や耳にするたびに、うんざりした思いは増してしまう。いじめは、現実に“ある”のだ。それはもう否定しようのないことなのだから、“あってはならない”などという建前は、もうやめにしていただけないか。たとえそれが嫌なものであろうと、“ある”ものは“ある”、“わからない“ものは“わからない“と認めることから、すべてが始まるのだ。その先にあるものが、希望か絶望かにかかわらず。

ちなみに、精神医学者の土居健郎さんは、『新訂方法としての面接』(1992)の中で、詩人 John Keats 「不確かさ、不思議さ、疑いの中にあって、早く事実や理由をつかもうとせず、そこに居続けられる能力(negative capability)」という考え方を紹介しながら、精神科的面接の勘所はどうやってこの「わからない」という感覚を獲得できるかということにかかっていると述べておられます。

私は、「あってはならない」に対する重松さんの言葉に、いじめ問題に取り組む「本気」「オーセンティシティ」「ジェニュインネス」を考えるヒントがあると考えています。“あってはならない”“社会問題として看過できない”というのは、「政治の論理」「大人の論理」ではあっても、「教育の論理」「子どもの論理」として児童生徒が腑に落ちる言説ではないのではないかと私は思います。なぜなら、児童生徒は、“理想”として想定される世界を生きているのではなく、“弱くて強く、冷たくて温かい仲間と共に学校生活を送る中で、不安と希望の間で揺れながら、人間関係の意味を考えていく”という“現実”の世界を生きているからです。(そして、これは実は私たち大人にもあてはまることだと思います。)であるなら、「あってはならない」ではなく、(かと言って当然のことながら「あっても仕方がない」わけでもなく)、「あったことをどのように受けとめるか」という姿勢が、生徒指導においては大切になってくるのではないかと私は考えています。

「人間として許されない」という言葉も、意図はわかるけれども、少し違和感を覚えます。非行少年の立ち直りを援助する非行臨床や、児童生徒の問題行動に対応する生徒指導においては、大前提として「ダメなことはダメ」という枠組みを維持しつつも、非行・問題行動の正邪善悪の価値判断は一旦脇に置いて、内省を深めるプロセスを見守り変容に向けて援助的に関与することが不可欠であることは常識です。「絶対に許されない行為」「卑怯な行為」と断罪し禁止・抑圧を図る指導だけでは、加害者の内省・変容にはつながりにくいでしょう。そういう意味でも、いじめがセンセーショナルな社会問題となったことへの対応に囚われるあまり、いじめ防止の施策が「断罪・禁止・抑圧の指導」に偏ってしまうことに留意する必要があると私は考えています。およそ生徒指導において、児童生徒の問題行動を「人間として絶対に許されない」などと身も蓋もなく断罪する論理は、いじめ以外の問題ではほとんど見受けられないはずです。

いじめの態様はさまざまです。陰湿で過酷な暴行・傷害・強要・恐喝だけがいじめであるのではなく、無視・中傷・仲間はずしなどもいじめに違いありません。国立教育政策研究所の生徒指導リーフNo.10『いじめと暴力』の言葉を借りると、前者は「暴力を伴ういじめ」、後者は「暴力を伴わないいじめ」と言えます。そして、「自分は『暴力を伴ういじめ』など行ったことはない」という人はいても、「暴力を伴わないいじめ」すなわち人間関係における他者に対する嫌悪・忌避・拒絶等の情動や行動を「自分とは無縁」だと言い切れる人はいないはずです。そう考えると、いじめとは、子どもだけでなく私たち大人も誰もが持っている、他者との関係性における心の暗部と関係していると言えるのではないでしょうか。そして、そうであるなら、「本気でいじめ問題を考える」ということは、私たち大人が、自身の内面の「闇・影」「罪・業」等の問題と「本気で」向き合い、人間関係の難しさと大切さに思いを馳せながら、自分の「内と外」が一致した純粋な姿勢で、いじめの問題を子どもたちと一緒に考え続けることではないでしょうか。

教員をめざす学部生の教員採用試験に向けた指導で、「自分の学級でいじめが起きた時にどのように対処するか」というテーマで集団討論を行ったことがありました。学生たちはよく準備しており、「いじめは絶対に許されないという姿勢に立つ」「早期発見に努める」「警察との連携をためらわない」などの意見を述べました。基本的な対応方針としては正しい意見です。しかし、「自分たちの回答を、自分自身はどう思った?」と尋ねたところ、ある学生が「なんだか、ありきたりな感じがします」と答えました。そこで私は、ヨハネ福音書8章「姦通の女」のキリストの言葉「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」を紹介しました。「ありきたり」な理由が、「自分はいじめとは無縁」を前提にしていじめ論・いじめ防止論を立てるところに生じるのではないかということを問題提起したかったからです。

重松清さんが、いじめをテーマにした小説の中で、登場する子どもにたびたび口にさせている、次の問いを、私はこれからも「本気で」自問し、学生・院生と共に考えていきたいと思っています。

「人を嫌いになることも、いじめなんですか?」