幼稚園のアイドル「しろねこゆめ」10年の幼稚園生活を経て、永眠

2006年3月1日

しろねこ ゆめくん 騒動記

  1. ゆめ、わが園に到来
  2. ゆめ、その後 -8歳-
  3. ゆめ、10年の時を経て、永眠

1 ゆめ、わが園に到来

「 6 月 12 日(水)、早朝、出勤した職員が、山組西の植え込みの中に白い子猫を発見。その顔を見てびっくり。グチャグチャにただれ、目・鼻・口の判別が付かないほど。もし悪い病気で、園児に悪影響があれば大変だと、ひとまず佐々木先生がダンボール箱に収容し、目につかないところに隔離した。

 降園後、職員間でこの猫の処遇に悩む。この傷はやけどだろうか、事故の怪我だろうか。いったい誰が園内に入れたのか。心ない者の仕業を憤りながら、ダンボール箱のやり場に困った。とりあえず、親しい友人の獣医に電話で問い合わせてみた。「たぶん風邪だろう。目やにと鼻汁がひどく固まったもので、ぬるま湯を浸した柔らかい布で拭いてやれば少しは楽になるだろう。餌を食べる元気があれば、命が助かるかも。」とのこと。恐る恐る顔を拭き、かさぶたを取ろうとすると、目玉まで一緒に取れそうなひどさだったが、少しは目・鼻・口らしきものが独立して現れてきた。猫缶を与えるとむしゃぶりつき、恩知らずにも私の指まで一緒に噛むほどの勢いだった。

 乗りかかった舟、仕方なく夜道を動物病院まで走った。彼女の診断によると、「右目は化膿して視力無し。眼球が飛び出ているので、まぶたを縫い合わせた方がよい。左目は治療すれば視力が回復するかもしれないが、期待は薄い。飼い主のいない猫ならば、安楽死という手段も・・・。」と気重そうに語る。私自身とても安楽死の即断はできず、とりあえず入院させて帰宅。

 教官会議に図ることにした。「猫神さんに連れていって猫集団に仲間入りさせれば」「そっと見知らぬ所へ放そうよ」「園長先生のヨットに連れ込めば」「安楽死が適当かも・・・」など、協議難航。結局、内心どこかでひそかに病気による自然死を期待しつつ、治療の結果待ちということになった。

 1 週間後、病院へ見舞いに行くと、くだんの子猫は元気になっている。獣医の話では、「ほとんど失明状態。性格はよさそうだから限られた空間の中で、人間の世話があれば飼えるだろう。」目や風邪の治療はもとより、ノミ・耳ダニ・回虫の駆除、シャンプーまでの手厚い看護を受けており、ペットとして安心して飼える処置済みとのこと。

 再度の教官会議。どこからか心ない者によって持ち込まれた、いたいけな子猫の命。自分に関わりのない場へはじき出せば、責任逃れができ、そこで命を落としたところで心はさほど痛まない。が、自分たちで命を絶つことを決定するのは責任が重すぎて、とてもできない。無関心を装い、やり過ごせばこんなに悩まなかったものを、と後悔する。まさに人間のエゴを痛感した。結論は、人間の世話がないと生命を維持できない、ハンディを持ったこの子猫を園で飼うことに決定した。
 ことのいきさつを子どもたちに伝え、意見を聞くと、「かわいそうやなぁ」「母さん猫と離れて淋しいだろうなぁ」「優しくしてやろう」と、園で飼うことに大賛成。迷い込んできた時の状況、治療の経過や獣医からの飼い方の諸注意などを子どもたちにわかりやすく伝え、猫を迎える準備をした。

 7 月 2 日(火)朝、子どもたちに初お目見え。とびだした右目、濁った膿の色をした左目、お世辞にも器量がよいとは言い難い顔立ち。「気持ちわる~」と正直につぶやく幼児もいたが、慣れると、子猫特有の愛らしい仕草や人なつっこさに惹かれ、子猫見物のギャラリーが増え、大賑わい。

 「名前をつけてやろう」との提案があり、皆で相談。ケイスケ、コロ、ポチなどは支持されず、ユメとシロが残る。「ユメちゃんでは女みたい。名前らしくないし、意味がない」と、シロ派からの反対意見に、「目が見えない分、楽しい夢がいっぱい見られるといいね」で、大多数がユメ派に。「名字と名前にしようよ」の提案もあり、結局「しろねこ ゆめ」と命名。
 「ゆめ君の家を作ってやろう」と力を合わせて木工で立派な家を作ったり、「ゆめ君のおみやげ」と家から猫缶の差し入れを持ってきたり、母猫気分で話しかけながら終日抱いていたり、猫語の分かる幼児が次々増えている。  目を閉じて手探りで這ってみて、子どもたち自身が実際に闇の世界を体験してみると、「目が見えんとこわいなぁ」「ゆめ君、たいへんやなぁ」と、その不自由さや大変さが実感できたようで、「針やはさみが落ちとったら危ない」と、ゆめ君の周囲を安全にしてやろうと配慮できるようにもなった。

 七夕の笹飾りの短冊には、『ゆめくんのめがよくなりますように』 『ゆめくんのびょうきがはやく・・・』との願い事がたくさん見られた。お星様への祈りが通じたのか、最近のゆめ君は次第に目姿がよくなり、元気いっぱいに愛嬌をふりまき、いまや附属幼稚園のアイドルとなっている。

 生き物の命を守る営みは、生半可な同情ではすまない、厳しい現実があるが、共に生きる仲間として温かい心の交流を大切にしながら、息長く付き合っていきたい。
 今後とも、「しろねこ ゆめくん」をよろしく!!。

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2 ゆめ、その後 -8歳-

 この園に迷い込んだ日から、かれこれ8年近くになる。いったいどのくらいの園児たちをこの園から見送ったことだろう・・・。今年も56名の園児たちがこの学び舎を巣立っていった。吾が輩もずいぶん年を取ったものだ。もうすっかり古株である。日ごろは園内で暮らし、お盆やお正月は保護者や先生宅でごやっかいになっている。今年のお正月は、近藤副園長先生のお家で共に新年を祝った。

 思いおこせば8年前、ほとんど死にかけの状態でこの園に拾われた時は実に哀れだった。その後、化膿した両眼を摘出し、今は元気で毎日お気楽?とまではいかないが(ときどき園児たちからの執拗なおっかけがある・・・)、まあまあ気ままに生活している。おかげでまるまると太り、毛並みもつやつやし、なにかしら気品さえも感じられる。親の欲目にも美男子とはいえない吾が輩を、いかにこの園の園児たちや先生方が愛してきてくれたかの証であろう。まことにありがたいことだ。

写真1

 さて、目が見えないといっても園内のことはほとんど熟知しているし、もちろんぶつからないで歩くこともできる。研究会にも出席している。

 今、一番お気に入りの場所は園長室だ。ここの椅子が一番寝心地がいい。吾が輩が座っていると園長先生は遠慮して譲ってくれるせいか、たまに“次期園長の座を狙っている”と噂されることもある。そんなときはこそこそ教官室の椅子の上に戻る。もっともまた誰か他の先生が座れなくなるのだが・・・。

 この8年で園内もずいぶん変わり環境整備されてきた。幼小連携のシンボルである「ゆめランド」-固定総合遊具-も小学校と幼稚園の境界線上につくられ、小学校の児童が園庭にいる姿もよく見かけるようになった。創立110周年記念事業で、玄関周辺もすっきりキレイになり、バチカン市国にも献上された『蜂須賀桜』も植樹された。そして戦火をくぐりぬけ、壊れることなく子どもたちを楽しませてくれた思い出のブランコは、元園長の橋本先生によってモニュメントとして復活した。これからも園児たちにとってより良き環境となっていくことだろう。影ながら見守っていくつもりである。

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3 ゆめ、10年余りの幼稚園生活を経て、永眠

写真2

 3月2日、今年度の年長組と一年生の表現会は、ユメへの黙祷から始まりました。

 平成8年6月に迷い込んできてからこれまでずっと幼稚園を住処に、本園の一員として暮らしてきた全盲のユメが、3月1日朝、8時頃、亡くなりました。

 今年の冬休み、ユメは、勝浦先生宅にホームステイをし、年末年始を暖かく贅沢に過ごして丸々と太り、毛艶もよく元気でした。1月には、ユメを飼い始めた当時の修了生の附属中学校3年生が家庭科の授業で久しぶりに来園し、ユメとは10年ぶりの再会を果たしました。彼らは高校受験を目前に控えた重苦しい雰囲気の中、ほっと息抜きできる癒された時間だったと、喜んで帰りました。

 1月末頃から、ユメは、あまり餌を食べなくなり、よく水を飲んで、時折嘔吐も見られ、だんだんと痩せてきました。老猫の多くは最後が腎不全となるそうで、ユメも動物病院で血液検査を受けると腎機能の値が悪く、多分快復の見込みはないので、弱った体に負担のないように暖かく過ごさせてやってほしいとのことでした。

 だんだんと何も食べなくなり、松井さんや堀江先生の手あつい看護で、点滴をしたり栄養剤を与えたりと、毎日のように動物病院に通い治療を受けましたが、残念ながらとうとう逝ってしまいました。

 ユメの死を知った子どもたち、特に年長児は、号泣でした。うわさを聞きつけた小学生も大勢が休み時間にお別れにきてくれました。
「ユメは天国へ行ったら、お母さんやお父さんに会えるね」
「天国の神様は何でもお願いを聞いてくれるから、目が、見えるようになるだろうね」
「私たちの表現会を見てほしかった」
「天国からよく見える目でみてくれてるよ」
「静かに天国へ送ってあげよう。魂は、ずっと幼稚園のみんなを見てくれているから」
「ちょっと動いたよ。死んでないよ」
「僕にいい考えがある」と山組のD君が、
「空気があれば生きかえる」と、スーパーの袋を自分の息で膨らませ、ユメの口元に持っていくと、周りの幼児は半信半疑。
「心臓も肺も動かなくなってしまってから空気をあげても、だめ…かな」との私の話でも、納得いかない彼は、今度は、ペットボトルを持ってきていました。

 福寿草の花を摘んでユメの周囲を飾り
「十歳のユメに福があるように福寿草のお花です」
羊毛ボールを指差し、
「これの作り方教えて。天国でユメが遊べるように作ってあげたい」
「先生、ユメをどうするの? 焼かないで。お願いだからこのままにしておいて」・・・。

 ユメの主治医であった高島先生が大きな花束をもって幼稚園にきてくれたのは、園長室でユメを囲んで子どもたちと大泣きをしながらこんなやり取りをしている最中でした。
「こんなにユメちゃんは皆に大切にされ、純粋な子どもたちの深い愛情をいっぱいに受けて、目は見えなかったけど、美しいものばかりを見て生きてこれたから、幸せだったでしょうね」との彼女の話に、深くうなずいている私でした。

 次々と花束やお手紙やカードが届けられ、多くの方がその死を悼んでくれました。亡くなってもアイドルである、ユメの存在の大きさを今になって改めて痛感しています。

 私自身は、10年前の、子猫の生命の危機に直面して一喜一憂しながら付き合ってきた当時の子どもたちとの濃密で深い交流を体験してきたため、それ以降の平穏なユメに寄せる子どもたちの思いや交流を内心軽んじてきた感が否めません。が、今、子どもたちの心をこんなにも豊かに育ててくれたユメの偉大さに驚いています。動物との丸ごとの付き合いで子どもは多くの真実を学び、優しさや思いやりをたっぷりと抱けるようになるのでしょう。ユメのおかげで、私自身も今まで見えていなかったことに気がつきました。

 思えば、長じてからのユメは、周囲に迷惑をかけない、自立した利口な猫でした。

 大事なお客様の時には、玄関前に出て招き猫をしたり、自分もスタッフの一員といわんばかりに端っこにちょこんと座っていました。無理を言わず、不平や苦情を訴えることもなく、毎日、そっと居心地のいいところを探して、平和にのんびりと暮らしていたようです。
「目が見えない分、夢がたくさん見えるといいね」と名づけられたユメは、静かにいい夢を見ていたのでしょう。そんなユメのすばらしさを一番よく知っていたのも子どもたちでした。

 動物の家のユメの部屋は空っぽで、園長代理としての指定席の椅子に、ユメがいない喪失感はとても大きいです。ふと、ユメが出てきそうな気もしたりします。

 修了記念ビデオの編集をしているパソコンから、川組のHさんの
「大きくなったら科学者になって、ユメの目が治るお薬を研究したいです・・」の声が流れてきたりすると、また、涙が出てきます。

 ユメ君、本当にありがとうございました。心より感謝申し上げ、冥福を祈ります。そして生前の彼にいただいたご厚誼に対して、この場を借りて謹んで御礼申し上げます。

写真3

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