所長だより032 「南海ホークス」

2015年11月4日

 1029日、ソフトバンクホークスがプロ野球の日本シリーズを連覇しました。

 大阪の私鉄の南海電鉄による球団が設立されたのは1938年のこと、1947年に球団名が「南海ホークス」となり、以降1988年までの41年間、ホークスは大阪を本拠地に、多くの大阪のファンに愛されてきました。1988年、南海電鉄はホークスを売却、ホークスは大阪を去り福岡へ、そして、球団保有権はダイエーに、さらに2005年にはソフトバンクに移り、現在に至っています。

私も熱狂的なホークスファンの一人です。

 愛車のビュートは、南海ホークスのチームカラーの深緑色です。

 

 私の父親はまともに仕事をしない道楽者で、私が高校のときに母親と離婚し、家を出ました。そんな父親ですが、たったひとつだけ感謝しているのは、私がホークスファンになるきっかけをくれたことです。父親も熱烈な南海ホークスファンで、よく、ホームスタジアムである難波の大阪球場(1950年に完成)に連れていってくれました。

 入場口を入り、コンクリートの階段を上り、通路からスタンドに出ると目にとびこむ、まばゆいばかりのナイター照明に浮かびあがる黒土の内野と緑の芝生の外野の鮮やかさ…、あの瞬間の胸の高鳴りは今でも忘れられません。父親・母親・妹と私の家族4人で大阪球場に観戦に行き、テレビのスポーツニュースで私たちの家族がスタンドで応援する姿が写り、大騒ぎしたこともありました。私の家族がかろうじて家族のかたちをとどめていた頃の、数少ない思い出の一つです。

大阪球場独特の急勾配のスタンド、バックネット裏の「がんこ」の看板、外野の「あぶさん」の看板などの風景も、今でも目に浮かびます。ウグイス嬢の堀口さんの試合開始前の選手紹介の声もよく覚えています。「後攻の南海ホークス、1番、センター広瀬、センター広瀬、背番号12、…4番、キャッチャー野村、キャッチャー野村、背番号19、…9番、ピッチャー杉浦、ピッチャー杉浦、背番号21」。「広瀬」とは、1番バッターとして活躍した広瀬叔功さんです。通算盗塁数はプロ野球の歴代2位、通算盗塁成功率は歴代1位の俊足巧打の選手でした。「野村」とは、不動の4番バッター野村克也さん、後に南海・ヤクルト・阪神・楽天の監督も務め、今は解説者として有名な「ノムさん」です。通算本塁打数・打点数は歴代2位、1965年には戦後初(キャッチャーとしては世界初)の三冠王にもなりました。「杉浦」とは、南海ホークスのエースとして活躍した杉浦忠さんです。特に、シーズンでは38勝4敗の成績を残し、日本シリーズでは4連投4連勝で宿敵巨人を倒した1959年の活躍は、オールドホークスファンの間では伝説として語り継がれています。

 

 児童生徒理解、他者理解のためには、その人が生きてきた物語を読み取る必要があります。その道のりには、今の「喜び」に至る「苦悩」があり、今の「希望」に至るまでの「絶望」があるものです(もちろんその逆のプロセスもあります)。そして、人は、他者には見えないけれども、その人だけには見える大切なものを見つめながら生きているのだろうと思います。

 ホークスは、近年は、パリーグで常に優勝を争う強豪チームになりました。特に、ダントツの強さでレギュラーシーズン・クライマックスシリーズ・日本シリーズを制した今年は、少しやっかみ、ジェラシーを交えた「ホークスは強すぎる…」「ホークスファンはいいよな…」というような他チームのファンの声を耳にすることもあります。確かに嬉しいし、幸せです。でも、ホークスファンにも、かつては「苦悩」「絶望」の時代がありました。

 南海ホークスの19501960年代は、優勝9回・2位9回の成績を残した黄金時代でした。1956年生まれの私も、子どもの頃は、強いホークスに心を躍らせていました。けれども、その後、長い低迷期に入り、1978年以降は11年連続(ダイエー時代も含めると20年連続)Bクラスという暗黒時代となりました。「南海ファンやもん」(歌:アンタッチャブル)という歌があります。その歌詞は、当時の南海ホークスファンの気持ちをよく表しています。

   

昔の話が 酒のあてになる頃 そん時だけに 目の輝きが戻る

あん時ゃよかったね あん時ゃ強かったねと 

言いたいばかりに 今日もミナミの飲み屋へ

沈みかける夕陽に向かって 俺ひとり 

そばに立っていっしょに 唄うたう女はいない

だって俺 だって俺 南海ファンやもん

 

酒とグチと 南海ホークス 一人で語る 黄金時代のことを

散歩がてらに 中モズ(※二軍の球場があった場所)訪ねれば 

おおこれがホークス なんとも言えんエー感じ

いつかきっとよくなるさ そのうち見てろとつぶやいて 

夢を語るほどに わびしい気持ちになってくる

だって俺 だって俺 南海ファンやもん

 

酒を飲めば底なしで どうせあかんとくだまいて

やっぱり足を運ぶ みどりのユニフォーム好きやから

だって俺 だって俺 南海ファンやもん

だって俺 だって俺 南海ファンやもん

 

 そして1988年9月21日、ついに、球団の身売りが発表されます。私たちのホークスは、23億円で南海電鉄からダイエーに売却され、本拠地を福岡に移すことになりました。「南海ホークスがなくなってしまう…」、大きな衝撃を受けました。信じられませんでした。信じたくありませんでした。たとえシーズン全敗したってもうグチは言わへんから、球団経営が厳しいんやったらどれくらいの入場者が必要かを教えてくれたらみんなで協力してスタジアムに足を運ぶから…、それでも足らんのやったらみんなで寄付するから、そやから、どうか南海ホークスのままで大阪球場に残してください、いてくれさえすればいつの日かはきっと…。けれども、願いは叶いませんでした。

 大阪球場での南海ホークスの最終戦、久しぶりにスタジアムは満員のファンで埋まりました。近鉄バッファローズ相手に6-4で勝利、そして試合後のセレモニーでの杉浦監督の挨拶。大阪のファンに残してくれた、奇跡のアンダースローの杉浦さんの挨拶の最後の一言は、「行ってまいります」でした。その瞬間、南海ホークスファンの涙腺は崩壊しました。二度と戻ってくることはないのはわかっているけれども、かすかな希望だけは残してくれる言葉でした。戦地に赴く出征軍人が家族や知人に残す言葉と重なりました。

 大阪球場は1998年に解体され、現在は「なんばパークス」という商業施設になっています。でも、オールドホークスファンにとっては、今でもそこは、なんばパークスが「ある場所」ではなく、大阪球場が「あった場所」です。聖地です。御堂筋を南に突き当たり、高島屋にそって右に回り込むと、そこには今でも、私の目には大阪球場の姿が見えます。

 南海ホークスが大阪から消えるとき、私たちファンは、当初、その事実を受け入れられませんでした。しかし、やがて、現実を認めざるを得なくなると、次に私たちが願ったのは、「どうかホークスというチームの愛称だけは残してほしい」という、ささやかな、けれども私たちにとっては痛切なすがる思いでした。その願いは届き、ホークスは「ダイエーホークス」となりました。こうして、私たちのホークス物語は、繋がっていくことになったのでした。また、なんばパークスの、かつて大阪球場のピッチャープレートとホームベースがあった位置には、床に、大理石のメモリアルプレートが埋め込まれました。私たちにとっては、思いを馳せたいときに訪れる、南海ホークスの墓標です。さらに、なんばパークスの9階には「南海ホークスメモリアルギャラリー」が設けられ、トロフィーやユニフォームなどが飾られています。

大阪府教育委員会に勤務していたとき、私は、府立高校の「再編整備・特色づくり計画」を担当しました。再編整備には、単独校の改編と2校を統合しての改編があります。統合整備の場合は、いずれか一方の高校の校地・校舎を使うことになります。再編整備後は、両校の特色・伝統を引き継ぎつつ、校名・校歌・学科等が変わり新校になります。旧校を失う関係者の方々の喪失感は大きかったでしょうし、特に、校地から校舎がなくなる学校の関係者の方々の喪失感はより深かっただろうと思います。

 学校の再編の問題をプロ野球チームの存廃の問題と一緒にして語ると顰蹙を買いそうなので、当時は人に話したことはありませんでしたが、私はいつも南海ホークスのことを考えながら、「大切なものを失う深い悲しみ」と「何らかの意味で系譜が繋がっていくことへの切なる願い」を念頭に置いて、校名の検討、伝統の継承、記念室の整備などの仕事に精一杯携わりました。

メモリアルは、人の支えです。こだわり、思い出、物語がないと、人は人生の意味を見出せないのではないかと思います。私の知人の社会学者で、「南海ホークスがあったころ‐野球ファンとパ・リーグの文化史‐」の著書のある関西大学の永井良和さんが、2013年に、特別展「南海ホークス-市民の暮らしとスポーツ-」を企画され、堺市博物館で開催されました。会場には、南海ホークスファンと思われる年配の方々がたくさん足を運んでおられました。ある老人は、展示品をじっと見つめながら目頭を拭っておられました。ある人は「わしは昔、大阪球場で入場券のモギリをしてたことがあるんや」とお連れ合いの方に誇らしげに話しておられました。この人たちにも、大阪球場は今でも見えているに違いありません。

 

私の息子は、物心がつき始めた頃、どういうわけか、中日ドラゴンズが少し好きだと言い始めました。そこで私は、頻繁に、関西で行われるホークスと近鉄やオリックスとの試合に息子を連れていき、遊戯王のカードを欲しがるとついでにホークスの野球カードを買い与えました。そして、やがて息子も熱烈なホークスファンとなりました。意図的・操作的に息子を「誘導」したのは、後にも先にもこれだけです。2011年の日本シリーズ、ホークスとドラゴンズとの第7戦は、福岡のドームで息子と二人で観戦しました。9回表2アウト、摂津が和田を三振に打ち取り、ホークスは見事、日本一となりました。息子とハイタッチしました。そして、何となくこれで「父親としての役割」は一段落したような気持ちになりました。

私の家族の物語、私のホークスの物語は、息子の物語に繋がっていきます。