所長だより010 「組織的な生徒指導の難しさ」

2015年6月3日

 先週、高知県の高等学校・特別支援学校の生徒指導主事の先生方に、「組織的な生徒指導の難しさと大切さ」という演題でお話しさせていただく機会をいただきました。講演のためのスライドを準備する中で考えたのですが、学校現場では、「学力育成」「進路保障」等に関する先生方の合意は比較的スムーズに形成されるのに対し、「生徒指導」特に「規律指導Guidance」に関する合意形成はすんなりいかないことがしばしばあります。そこで、「規律指導」に関する合意形成が難しい理由は何なのか、「学力育成」「進路保障」等の課題と「規律指導」の課題の違いは何なのかを考えてみました。

 結論から言いますと、私は、「規律指導」の問題は特に、個々の先生のパーソナリティや教育観が大きく反映されるからではないかと思っています。

 河合隼雄さんは『子どもと学校』(1992)の中で、父性原理と母性原理という概念で、「教育のなかの二つの原理」を示しておられます。

   ある生徒が校則を破る。その程度がひどいときは、処罰が職員会議で論じられる。片方は、悪をはたらいた限り処罰は教育的に考えても当然という。他方は、そのような悪い生徒だからこそ、教師がかばってやるべきで処罰などせずに、皆で包みこんでやるのこそ教育的だという意見が出される。前者は善と悪とを明確に区別してゆく原理に立っているのに対して、後者は善悪の区別よりも、全員が包まれて一体となってゆくことを原理としている。父性原理、母性原理と私が呼んでいるものは、端的に言うと、父性は「切る」、母性は「包む」機能を主としている。この原理のどちらが正しいというのではないが、片方の原理が正しいと思うと相手を攻撃したくなってくる。

所長だより002で書きましたが、学校現場では、規律指導を担当する教師が

   「“甘い”“けじめのない”教員がいる」

   「“毅然とした指導”が徹底しないから学校が良くならない」

と他の教師に不信感を持ち、教育相談を担当する教師が

 「“固い”“生徒の心がわからない”教員がいる」

 「“生徒理解や共感”が十分でないから学校が良くならない」

と他の教師に不信感を持つ光景が散見されます。このような状態を、父性原理と母性原理の対立、相手の原理への攻撃としてとらえることもできるでしょう。「学力育成」「進路保障」等の課題では、この二つの原理が表面化することはあまりありませんが、「規律指導」では、ストレートに二つの原理についてのその教師の立ち位置が問われてくるのではないか、だからこそ、「規律指導」の合意形成は難しいのではないかと私は考えています。

 けれども、「難しい」と言って済ませてしまうわけにもいきません。この日の演題を「組織的な生徒指導の難しさと大切さ」としたように、組織的な生徒指導の「大切さ」を提言するためには、合意形成の方向をお示しする必要があります。そこで、私は、

 *学校にはいろいろなパーソナリティの先生方がいることが重要

 *父性原理を重視する先生と母性原理を重視する先生の相互のリスペクトが重要

 *個人戦から団体戦へという発想が重要

という趣旨の話しをしました。

 生徒指導主事の先生は、体育科の先生が担当されることが多いものです。高知では3年前にも同じテーマで講演させていただいたことがありますが、当時、高知県教育委員会のある指導主事の方に、「生徒指導の担当の先生に体育科の先生が多い理由は何だとお考えですか?」と質問してみました。その方は、学校現場では生徒指導主事を務められていた体育の先生でした。すると、お考えを丁寧に整理して、次のように回答してくださいました。

   *中・高・大学の部活動で経験し学んだコミュニケーション能力や上下関係能力が身に付いている。

   *威圧感(見た目が怖い、大きな声、部活動で培った根性的なもの)があり、生徒全体をまとめる能力がある。

   *体格や体力、普段の服装など見た目で他の教員より一目おかれやすい雰囲気がある。

   *情熱的で面倒見がよい。

体育の先生にもいろんな方がいらっしゃるわけで、「人は平均に還元できない」とは思いますが、このご回答は、体育の先生方に比較的共通して見られる持ち味や強み、言い方を変えれば父性原理のプラスの面を、うまく表現されていると思います。そして、言うまでもなく、このような先生方の“教師力”は学校教育において不可欠なものであり、母性原理に拠って「非教育的だ」と否定するのではなく、その教育的意義について理解することが大切だと思います。

 しかし、一方では、父性原理よりも母性原理が勝るタイプの先生方もいらっしゃいます。私も、教師としてはどちらか言うとそのタイプだと思います。ですので、たとえば、重松清さんの小説『ライオン先生』に登場する先生が、成績不振の生徒たちを「箸にも棒にもかからない」という学年主任に対して、「箸にも棒にもかからないのなら、スプーンですくえばいいじゃないですか」とつぶやき、

上からつまむ箸や、突き刺すフォークと違って、スプーンは下からすくう。それがなんだか教育の極意のような気もして、ああオレはいま教師なんだ、としみじみと実感していたのだ。

と独白する場面などには心が動きます。

 また、特に若い頃は、「叱る」という行為を苦手にしていましたが、五木寛之さんが『生きるヒント4』(1997)の中で書いておられる、

…わかっているのは、〈叱る〉という行為は、必ず強い側から弱い立場の相手に対して可能なことだということです。…今のぼくは〈文句を言う〉ことはできても、人を叱るほど人間や世の中に対して温かい気持ちを持つことができないでいるのです。…それというのも、自分が相手より強い立場にいることに、生理的な不快感をおぼえてしまうからです。

という文章に出会ったときも、共感を覚えました。

 どちらかと言うと母性原理がフィットするタイプの先生方も、現場には必ずいらっしゃいます。そして、言うまでもなく、このような先生方の“教師力”も学校教育において不可欠なものであり、父性原理に拠って「甘い」と否定するのではなく、その教育的意義について理解することが大切だと思います。

 もうすぐ、サッカーの女子ワールドカップが始まります。4年前の前回大会、ゴールを死守したGKの海堀あゆみさんは、優勝後のインタビューで、こう語りました。

「ゴールは一人じゃ守れない。」