このページは、特集「現代美術教育批評と実践」にご寄稿いただいた谷口幹也さんの美術論(美術を媒介にした考察)です。

フランシス・ベーコンは、なぜ描いたのか?
−存在論的欲望の一考察−

            谷口幹也

1. 序
 フランシス・ベーコン(Francis Bacon 1909-1993)。このダブリン生まれのイギリス人の画家が描いた絵を前にして、私たちはどのような印象をいだくだろうか。戸惑い、薄気味悪さといったものであろうか。または言葉にならない“嫌な”気分のようなものだろうか。
 現在に至るまで、この一人の画家が描いた作品をめぐって、多くの人がその絵のいびつな様に眉をひそめ、またそれと同時に魅了され続けている。いったい、私たちはこの画家の描く絵の何に眉をひそめ、何に魅せられているのだろうか。
 彼の作品をめぐって、多くの批評家がさまざまな解説が行なってきた。しかしベーコンは、どんな解釈がされようとも気にせず、己が惹かれるイメージを、絵として再現することだけに神経を注いできたのだと語っている。その意味においてベーコンの作品は、批評という営みを拒むかのように存在している。ベーコンの絵を前にして、私は何を語ることができるだろうか。
 私は「なぜ描くのか?」という問いを、ベーコンの作品に見出している。そしてこの問いを軸としてあえて語りたい。なぜなら、美術教育の課題を考えていくにあたって、現在最も必要なことは、彼が、“何を描いたのか”を問うのではなく、“なぜ描かねばならなかった”のかを考えることではないかと考えるからである。そしてこの問いが、現在の美術教育において最も重要な問いの契機となるのではないかと考えるのである。
 本文章では、フランシス・ベーコンへのインタビューをとおして、なぜ描かねばならなかったのか、という問いについて考えていきたい。そしてこの問いから、美術教育の課題が浮かび上がらせることがでればと考えている。

2. 生の暴力性
 牙をむき出し絶叫する顔。いびつなまでにゆがめられた肉体。ベッドの上で、激しく抱擁する二人の男。フランシス・ベーコンの絵には、血と精液のイメージがつきまとう。そしてベーコンは、制作の初期から一貫して動物的なイメージをモチーフとしている。牙、血液、臓物、筋肉のしなり。そして、彼は絵を描く際、写真やイラストから多くのインスピレーションを得る。マイブリッジ(Eadweard Muybridge 1830-1903)による人間の動きをとらえた連続写真。あるいは、口の病気について描かれたイラスト。彼は写真になら何にでも興味を引かれると語っている。そして、彼の描いた人物画、特にトリプティクスと呼ばれる三枚の連作に見られる画面の空虚さ、透明感はいったい何なのだろう。人物に見られる筋肉の動きやデフォルメされた肉体とは逆に、イラストめいた電球やコンセント、新聞といった小道具のせいだろうか。または、檻を連想させる鉄柵やベッド、それにソファーなどによって舞台じたてられた絵の構成のせいだろうか。肉体の激しい表現とは正反対に表現された空間。その空間のリアリティーの希薄さ。このアンビバレントな構成が、私たちを強烈に引き込み、また突き放す。

「物語は伝えたくない?」
「その通り、むきだしのイメージが好きなんだ。自分もショックを受けたい。ショックも表現の形式なんだ。でも何の表現かは知らない。ただの視覚的ショックだ。物語から来るショックではなく、ただのショックなんだ。」(1)

 彼は、規則正しく行なわれる制作から生まれるインスピレーションを頼りにし、壁に、はじめてペンキを塗るときのような力強いブラッシングを繰りかえす。彼は“偶然”に多くを依拠しながら描き続ける。彼の仕事とは、彼の言葉によるならば「ショックという表現形式」による、神経系に直接訴えかける絵、イメージを通じて感性を解放する絵を描くことだという。
 だが、なぜ、彼はショックにこだわったのか。
 そして、なぜ、彼は描かねばならなかったのだろうか。
 私は、この問いについて思いをめぐらせるとき、人間が人間として誕生したときにさかのぼる、人間の存在論的暴力について思いをはせる。それは、私たちが生きていること、存在しているということ自体が孕む暴力性のことである。
 芹沢俊介は、その著書『子どもたちはなぜ暴力に走るのか』(2)において、存在論的暴力をめぐって“イノセンス”という概念を提示している。

 イノセンスとはこのいのち、この身体、この生として、この家族に人間として産み落とされた(分離された)ことに対して、「そのままでは引き受けられない」という心的なあり方を指している。<中略>誕生は自分の意志の外の出来事である。自分が生まれたこと、およびそれにともなう外=親からのこうした強制的な書き込み、すなわち暴力。これが誕生という、母胎からの分離劇における主人公である子供の内的構成である。(3)

 母胎からの分離、生を受けるという絶対的な暴力。ベーコンが惹きつけられていた“叫び”とは、私たちが母胎から引きなされたときにあげる「産声」という叫びにも通じているのではないだろうか。私たちは誕生することによって輝かしい未来に包まれるのと同時に、多くの背負いきれない現実を贈与される。そして、思春期をむかえ、生物としての必要不可欠な機能が成熟するとき、私たちは動物的な自分自身を自覚せざるおえない局面を迎える。リピドーに翻弄され、欲情するとき、私たちは動物としての現実に直面する。そして、その存在規定は、私たちを激しく動揺させる。
 芹沢によると、誕生というドラマは、私たちの存在の在り様を規定し暴力的にこの世に送り出す。出生という根元的な体験における被暴力の記憶は、未来に向かって反復される。その反復されるイノセンスの表出はまず、最初の他者である母親に向けられる。そしてその表出を受容される中で、私たちは、私達自身が自己が存在する、ということを引き受けていくのだという。 
 しかしベーコンの作品の中においては、そのイノセンスの表出と受容という回路は全く壊れているかのように見える。私たちが存在するという、暴力に彩られた現実を受け止めていくための反復行為が、他者に向けられるのではなく、自分自身へと向けられているように思えるのだ。それは時として、破壊の衝動が他者に向けられるのではなく、自傷症といった自分自身に向けられる暴力と同じように。そして性の衝動が異性ではなく同性に向けられるようにである。

3. 最悪の事態
 フランシス・ベーコンは次のように語っている。

「でも私が描くものは今の世界の恐怖にはかなわないよ。新聞やテレビをごらん。世界で何が起こっているか。それに肩を並べるものは描けない。僕はただそのイメージを描いた、恐怖を再現しようとしたんだ。」(4)

 彼の描いた絵には、私たちが現在、マスメディアをつうじて慣れ親しんでいる、殺戮の姿や、戦争の様子が描かれることはなかった。しかし彼は絵を描くことによって、私たちにつきまとう恐怖、私たちが生きる世界の恐怖のイメージを再現しようとしたのだと語っている。
 彼は恐怖を描くとき、いっさいの物語的な要素を拒否する。彼の描いたほとんどの絵の中に、人物が一人しか描かれていないのはこのためだと思われる。もし、二人以上の人物が登場するのならば、絵を見ている私たちは、描かれた人物の関係を詮索し、物語を作ることによって絵の解釈を試みるだろう。彼はこのことを拒否するのである。
 フランシス・ベーコンの作品は、見る側の期待とは無関係に、見る者の神経を逆撫でし、突き放す。それは突き放すというよりも、絵の世界に立ち入ることを激しく拒んでいるかのようである。彼の作品は、見る者による解釈や、何が描かれているのかを説明することを拒否し、私たちが今、絵の前に立ち、そしてその絵を見ているという現実だけを突きつける。
 私たちは絵の世界に入り込むことも、描かれている世界に心遊ばせることも許されない。はじめから絵の世界への介入は激しく拒まれ、私たちは事件現場に偶然居合わせた目撃者のように、ただその惨劇の成り行きを見つめるしかない。もしくは、すでに起こってしまった事件の現場に張り巡らされた「立入禁止」のロープのまわりで、その惨劇の痕跡をのぞき込む野次馬のような役割しか私たちには残されていないのである。  
 批評家のジョン・バージャー(John Berger 1926〜 )がその著書『見るということ』(5)において指摘するところによれば、ベーコンは最悪の事態に魅惑を感じるような黙示録的な画家ではない。彼にとっては最悪の事態はすでに起きていることなのであり、そして最悪の事態とは血やシミやはらわたによって表されているようなものではなく、人間が心を喪失してしまったかのように見えることなのだという。
 では、ジョン・バージャーが指摘する最悪の事態とは、一体どのようなことなのだろうか。

 私達が生きる現代を考えてみると、私たちは自らが経験するのではなく、テレビなどのマスメディアを通してさまざまな悲劇を目撃し、傍観者としてマスメディアに身を任せている。様々な事件の目撃者として、固唾をのんでその成り行きを見守り、その事件が残酷であればあるほどその悲劇に目を奪われ、そしてエクスタシーを誘う物語として消費する。このマスメディアの中における悲劇は、恐怖といった非日常への入り口さえも、消費への入り口に改ざんしてしまう。私たちはその入り口へ引き込まれることによって、さまざまな刺激による快楽に身を任すことを強制される。それは強制されているとは気づかないほどやさしく私たちを魅了する。そして悲劇は、安易なエクスタシーへの入り口へとして乱用される。
 アドルノ(Th.W. Adorno 1903-1969)が指摘していたように、私たちは悲劇にさえも欲望する事を強制されているのである。欲望することを強制され、神経の麻痺した私たちは、より大きな欲望、刺激へと惹かれていく。そして私たちは、現実の私たちには何の影響のない、安易なエクスタシーを誘う去勢された悲劇を求め続けるのである。
 ベーコンは気づいていたのではないだろうか。人間は悲劇に欲望する生き物であることを。彼がよりピュアに神経を打撃するイメージを求めたのはこのためだったのかもしれない。
 しかし、最悪の事態とは、このことだけではないのではないだろうか。
 外的な暴力として一人の人間に覆いかかる歴史や運命。この現実に対峙するとき、私たちは己の無力さを感じずにはいられない。また、私達は自然としての人間、内的な自然に支配される宿命を背負っている。それは先程考えた、生そのものが孕む暴力性のことである。内的な自然が、己に襲いかかるとき、人間が存在することによって抱え込んでしまった矛盾に対峙しなければならない。このとき、現実は悲劇となり、私たちを凍りつかせる。そして、私達自身が生きている今を、そして現実を見ることを強制するのである。
 そして、多くの強制を強いる暴力的な力に身をさらし続けることによって、静かに心の窓を閉め、感情を失い、心を失ったかのようになってしまう。ジョン・バージャーの指摘する心を失った状態、最悪の事態とは、このような私たちの現在、欲望を剥き出しにし、感覚器官が過剰反応するがゆえに麻痺してしまった私たちの姿を意味しているのではないだろうか。
 ベーコンは、ジョン・バージャーが指摘しているように絵を描くことによって、何も疑問を提示せず、何も解明しようとはしない。孤独や苦悩についての形而上的な疑問といったことを表現しているのわけでもなく、20世紀の人間の悲劇について何か言おうとしているのでもない。
 それはちょうど印象派のモネ(Claude Monet 1840〜1926)と同じような在り方であったのかもしれない。モネが光の変化に魅せられ、移ろいゆく風景の中に光が放つ一瞬を求めたように、そしてその一瞬の痕跡を描き続けたのと同じように、ベーコンは人間の疎外された姿に魅せられ、その姿を垣間見ることができる一瞬を求める。そしてその一瞬の痕跡をキャンバスに残そうとしたのではないだろうか。

4. 存在論的欲望
 ベーコンは「あなたの絵が、対象以外の何と関わっているのか?」と訪ねられたとき、こう答えている。「私の心理状態です。それはユーモアのある言い方をすれば、うきうきする絶望とでもいう気分です。」(6)
 ベーコンは、彼のいう、うきうきする絶望の淵に身を置き、絶望を見据えながら描きつづけた。そして名誉を拒絶し、倫理といった言葉とは無縁な場所で、人を愛し、酒に酔い、描きつづけた。絵描きとしての彼のまなざしは、私たちの本性を覆い隠しているベールを一枚づつ剥がしていく。そして人間の本質を冷ややかに見据える。彼は教育家でも慈善家でもない、ただの絵描きとして人間の存在を見つめ、それを描こうとする。彼は、あるべき人間の姿や理想像を語ったり描こうとはせずに、ただ人間のありのままを描く。
 そしてベーコンは次のように語っている。

「十七のときです。はっきり覚えています。舗装道路に犬の糞があって、それを見ているうちに突然思ったのです。これだ、人生とはこういうものだ、と。おかしなことですが、それから数カ月間悩みました。そして、言ってみれば、事実を受け入れたのです。自分は今ここにいるけれど、存在しているのはほんの一瞬であって、壁にとまっている蠅のようにたちまちはたかれてしまうのだ、という事実をです。」(7)

 彼の絵の持つ暴力性とは、戦争などの暴力ではなく、私たちがここに存在すること、存在それ自体が孕む暴力性のことだったのではないだろうか。そして現実に戦慄したとき、生きることに恐怖したとき、彼は描くしかなかったのではないのか。
 清眞人は、このような人間の欲望について以下のように語っている。

〈存在〉の感覚に魅入られ、〈世界〉と自己の〈存在〉を表現をとおして意識の前に「現存化」させようとする欲望、これを「存在論的感受性」、「存在論的欲望」と呼ぶことにするなら、まさにそうした感受性と欲望に取り憑かれた人間、かかる人間をぼくはここでは特有の意味で《芸術家》と呼ぶことにしたい。(8) 

 フランシス・ベーコンは、清眞人が語るように、存在論的欲望に取りつかれていたのであり、この意味において芸術家であったのだ。
 存在論的欲望。ベーコンは、去勢された悲劇ではなく、現実に今、私たちに起こっている最悪の事態を、私たち自身が悲劇的な存在であるということを自覚したとき、描くしかなかったのではないだろうか。そして、ベーコンは、暴力的な存在としての自分を、自分自身の暴力性を見据えること、すなわち描くことによって、受容しようとしていたとは考えられないだろうか。それは芹沢俊介が示していた、イノセンスの解体とも呼べる行為だったのではないだろうか。

5. 結
 フランシス・ベーコンの作品には、芸術と社会をめぐるパラドックスめいた関係を垣間見せる何かがある。絵を描くことによって何かを説明したり、告発しようとはせず、ただ自分の惹かれるイメージを再現しようとした絵描きの作品が、現代社会をもっとも象徴する作品として評価されているという逆説。

芸術から出現するものはもはや理想でもなければ調和でもない。芸術が与える解決は矛盾にみちた不協和音のうちに見いだされるにすぎない。(9) (Th.W.アドルノ)

 現代の不協和音。そして芸術が現在を生きることと、時代を見つめるまなざしによって生れてくるとするのならば、やはり芸術から見出され聞こえてくるのは不協和音なのかもしれない。ベーコンの作品はこのことを静かに物語っている。
 私たちは、身がきしむような不協和音を聞き取ったときにのみ、かすかな希望を見出すのではないだろうか。それは“私”のイノセンスの表出を、“私”自身で受けとめ、その内面において解体しなければならない、ということと同じことなのかもしれない。そしてこのことを、アドルノは先にあげたような言葉によって語ろうとしたのではないだろうか。
 私たちは、さまざまな暴力に翻弄される。この現実を認めたうえで、私たちは美術教育を語る必要があるのではないだろうか。このことによって美術教育は、より、子どもたちのリアル、私たちにとってのリアルに近づくことができるのではないかと思えるのである。そして、美術教育が芸術や表現といった言葉を柱として存在するかぎり、存在論的欲望、そして芹沢俊介がいうイノセンスの表出に対し、目をそらすことはできないであろう。私は、美術教育の課題はこの点に集中するのではないかと思う。
 私は以上のことから、描かざるおえない人間、描こうとする衝動、存在の痛みに根ざす力を、美術教育の出発点の問いとして考えつづけていかねばならないのではと考えるのである。存在論的欲望と美術教育。今後、この問いの形において、私たちは美術教育を考えていかねばならないのではないだろうか。

註   
(1) …on Sundays,『ART VIDEO LIBRARY 13 フランシス・ベーコン』イッシプレス.
(2) 芹沢俊介,『子供たちはなぜ暴力に走るのか』岩波書店,1998年.
(3) 同書,2頁.
(4) …on Sundays,『ART VIDEO LIBRARY 13 フランシス・ベーコン』イッシプレス.
(5) ジョン・バージャー,笠原美智子訳『見るということ』白水社,1993年.
(6) デイヴィッド・シルベスター,小林等訳『肉への慈悲』筑摩書房,1996年,93頁.
(7) 同書,148頁.
(8) 清眞人『経験の危機を生きる』青木書店,1999年,166頁.
(9) Th・W・アドルノ,前掲書,144頁.









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