認知療法への招待

 

認知療法とは何か?

 

 認知療法(cognitive therapy)は,ペンシルベニア大学認知療法センターの精神科医アーロン・ベック(Aaron T. Beck)によって考案された新しいタイプの精神療法で,次のような特徴がある.

 

1.認知療法は,きわめて常識的な視点からなされる“コモンセンス”の精神療法である.

 

 精神の病理を理解し治療するためには,常識的なものを一度は離れ,これとは違う視点から病理を見ていくことが必要になる.しかし,認知療法の視点は,病理と正常の差異性よりもその同一性に着目する.常識的なものがむしろ強調されるのである.患者は,健康な人々が日常の中で用いる方略や技能を,治療の過程で再び学習することになる.常識(コモンセンス)の視点と方法が応用できる治療法,それが認知療法である.

 

2.認知療法は,認知のパターンに関する理論的仮説(認知モデル)を基礎としている.

 

 認知療法は,理論的にも,治療実践においても,患者によって意識され自覚された思考や視覚的イメージ(これを認知 cognitions と総称する)に注目する.この認知の特徴的なパターンに関する理論的仮説が,認知療法の基礎となる認知モデル(cognitive model)である.それは,病的な抑うつや不安などを主徴とする情緒障害(emotional disorders)を,認知の障害という視点から説明しようとする理論であり,一般的には次のような形で定式化される.

 ある状況下における患者の感情や行動は,その状況に対する意味づけ・解釈である患者の認知によって規定される.

 認知モデルは認知療法の対象となる病態に応じて,たとえば,うつ病にはうつ病の認知モデルが,恐慌性障害には恐慌発作の認知モデルが提唱されている.この場合,認知モデルはそれぞれの病態を説明するための仮説(explanatory model)として提示されていることを理解しておく必要がある.病因に関する理論(causal or etiological model)ではないのである.つまり,認知モデルは「認知の障害がうつ病(あるいは恐慌性障害)を引き起こす」と主張するものではない.

 

3.認知療法では,認知のパターンを修正することにより,治療効果を得ようとする.

 

 認知モデルは情緒障害における認知の重要性を指摘する.しかし,認知療法の治療目標は認知の障害そのものを修正することではない.抑うつや不安などの感情の病理を解決するために,認知という側面からアプローチするのである.認知のパターンを修正することを通して,不快な感情の改善を図ろうとすること,それが認知療法の目標である.

 ここで注意すべきは,患者の否定的思考(negative thinking)を肯定的・積極的思考(positive thinking)に転換することが重要ではない点である.認知療法は,ある状況をみる視点はいくつも存在すること,その中には患者の否定的思考よりも適応的(adaptive)・現実的(realistic)な視点が存在しうることを,患者が自覚できるように援助する.そして,認知的技法(cognitive techniques)と行動的技法(behavioral techniques)という治療技法を用いて,否定的思考に対する患者の確信度を減じることが繰り返し試みられるのである.

 もちろん患者の思考がいつも不合理であるとはかぎらない.それが現実を正確に反映しているときもあろう.その場合には,問題となる状況そのものを改善したり,あるいは,患者の対処技能(coping skills)を向上させることが必要になるだろう.

 

4.認知療法は“セルフヘルプ”の精神療法である.

 

 誰しも自分の考えは正しいと思いがちである.うつ病や不安状態にある患者も例外ではない.彼らは健康なときに比べ,状況を多面的に解釈することが困難になっている.そこで誤った認知のパターンを修正するには,継続的な努力と訓練が不可欠になってくる.認知療法は治療セッションの中だけで行われるのではない.日常生活が治療の場となるのである.患者に与えられる宿題(homework assignments)は,認知療法が奏功するためには必須の課題である.

 認知療法は,治療者と患者の共同的な治療関係(collaboration)の上に成立する.治療者の父権的な(paternalistic)あり方は後退し,治療者と患者はチームを形成し,役割と責任を分担しあいながら,同一のレベルで問題解決に関わる.場合によっては,患者が治療を主導することが必要になってくる.

 認知療法による改善には,患者の積極的な関与が重要である.認知療法は,その意味で,“セルフヘルプ”の発想を持った治療と言える.

 

5.認知療法はその有効性が確かめられつつある精神療法の1つである.

 

 およそ治療法について語るときには,治療効果の有無が重大な問題になる.認知療法は,少なくとも外来治療の適応となるうつ病においては,一定の治療効果が報告されている数少ない精神療法の1つである.

 

 

認知療法の歴史

 

 認知療法の基礎をなす“情緒障害の認知モデル”という理論は,決して新しいものではない.たとえば,古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレーリウスの次のような言葉の中にその萌芽を見いだすことが可能であろう.

 「君がなにか外的の理由で苦しむとすれば,君を悩ますのはそのこと自体ではなくて,それに関する君の判断なのだ.」

 もちろんうつ病や神経症などの情緒障害の認知モデルは,哲学的思索の産物ではなく,きわめて臨床的な視点から生まれたものである.その歴史は1950年代後半にまで遡る.当時うつ病の精神分析的概念に検討を加えていた Beck は,やがて理論と臨床的事実の乖離を経験し,精神分析理論から離脱することになった.そして,1960年代には,感情・気分の一次的障害を本質とする病態とみされてきたうつ病という“感情の病”を,“思考の異常(thinking disorder)”という観点からとらえなおす斬新な考えを公表するようになった.うつ病の認知モデルがそれである.さらに,Beck はこの理論を治療的に応用するようになった.うつ病の認知療法である.

 1970年代後半,Beck の古典的著作である“Cognitive Therapy and theEmotional Disorders”と“Cognitive Therapy of Depression”が公にされている.また,この頃から,抗うつ薬を用いた薬物療法との比較研究が次々に行われるようになり,うつ病に対する認知療法の有効性が実証されてきた.

 1980年代以降,認知療法の適応となる病態は拡大する方向にある.うつ病はもちろんのこと,神経症,とりわけ恐慌性障害,さらに人格障害,摂食障害,薬物依存,そして夫婦間の心理的問題へとその治療的試みは広がりつつある.認知療法は,アメリカ,ヨーロッパを中心に,多くの臨床家の注目を集める精神療法へと発展してきている.

 わが国への Beck の認知療法の紹介は,1980年代後半から活発になっている.認知療法に関する著書や訳書,論文が現れはじめ,わが国においても精神科医や臨床心理士の間に関心が高まっている.

 

『認知療法への招待:改訂3版』(井上和臣 著,金芳堂,京都,2002年)より引用

 

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