所長だより053 「続・優しくて厳しい教師」

2016年3月30日

 前回の所長だよりで書きましたが、私の「所長だより」は、今回をもって終了させていただきます。一年間、ありがとうございました。

 ちょうど一年前、生徒指導支援センターのホームページを立ち上げる際に、所長からのメッセージのタイトルを「センターだより」にするか「所長だより」で少し迷いました。それは、文章を書くにあたっての、“社会的な役割”と“個人的なこだわり”の間での重点の置き方に関係してくるからです。

平成222010)年度に校長を務めたとき、私は、毎週、「校長室だより」を書きました。その最終回に、こんなことを書きました。

校長室だよりを書くうえで、いちばん気を使い、葛藤したのは、私個人のブログではなく布施高校の校長としてのメッセージにふさわしい内容になっているかという点でした。毎回のテーマは、布施高校の生徒たちや先生方のようすを見ている中で次々と思い浮かぶので、テーマを決めることにはさして困らなかったのですが、時間がかかったのは細かな部分の表現方法でした。書いては消して、消しては書いて、また、

「ここは『自分のこと』を書きすぎているなあ…」

「たとえ批判があっても自分個人としては受けて立つ覚悟はあるが、『布施高校の問題』としてとらえられると、学校に迷惑がかかるかなあ…」

などと悩み、一旦アップしながら翌日に修正したときもありました。大好きな吉田拓郎の言葉を引用しながら結局削除したときなどは、自分の内面のかけがえのない「こだわり」を、校長という立場の自分自身が抑え込む作業であり、独り相撲ではありますが、本当に苦悩しました。考えてみれば、このような葛藤は、校長室だよりだけでなく、日々の学校経営の中で校長が直面する問題でもあり、また、より普遍的に言えば、人が自分の社会的な役割を全うすることと自分自身の折り合いをどうつけるかという問題なのかもしれません。

同質の葛藤は、所長だよりを書く中でもしばしば経験することになりました。一度書き上げたけれどもボツにした原稿もありました。けれども、自分がいちばん伝えたいことを真っ直ぐに伝えるうえで、「所長だより」を書き綴ることは私にとって大切な作業でした。また、“毎週書く”ということは“ずっと考え続ける”ということでもあります。そういう意味においても、大切なルーティーンでした。

 もっとも、ときには、時間が迫ってきているにもかかわらず、しっくりとくる文章が浮かばなくて苦しんだこともありました。内幕を明かしますと、たとえば、“甘え”をテーマに土居健郎さんの文章などを引用しながら書いた所長だより047 「優しさと甘やかし」は、実は時間がなくて、私の修士論文から題材を引っ張り出してあわててまとめた文章でした。ですので、他に比べて学術的な色合いが少しだけ強く感じられる文章になっているかと思います。書いた内容については今も間違ってはいないとは思っていますが、「清新な気持ちで書いた文章か?」と問われると、そうではないことを認めざるを得ません。

 一方、ときには“お筆先の神様”が降臨して、どんどん言葉があふれてくることもありました。所長だより047の一つ前の、所長だより046 「3%の恋」を書いたときなどは、そんな感じでした。私自身は、所長だより046が、いちばんお気に入りの、私にとっての“ベスト・エッセイ”です。

 校長室だよりは、簡易製本して、知人などに配りましたが、そのタイトルは『別れるために深く出会う』にしました。所長だよりも簡易製本しようかなと考えていますが、タイトルは『優しくて厳しい教師をめざして』にしようと思っています。

 平成142002)年1月、私は、教諭から教頭になり異動することになりました。一般的には人事異動は年度替わりに行われることが多いですが、私は、学科改編が行われた高校の教頭として高校改革を推進する役割を命じられ、新学科の入学者選抜業務から担当せよということで、1月1日付けの異動となったのでした。

教諭として最後に勤めた大阪府立柴島(くにじま)高校は、人権教育を軸として学校づくりを進めてきた学校でした。“立場宣言”の取組に象徴されるように、生徒たちがあるがままの自分を真っ直ぐに開示し、たとえ簡単にはわかりあえない問題であっても、棚上げにするのではなく、両側から越えていく関係を紡いでいくことで、偏見・差別・競争の関係性から共感・協同・共生の関係性に深めていくことに、教師と生徒が本気で取り組んできた学校でした(そしてその伝統は今も受け継がれています。)。そんな柴島高校からの3月末での転出は覚悟していましたが、あまりの急な話に戸惑いつつ、20年余りの教諭としての役割を終えることへの感慨もあり、1月9日の離任式で、私は生徒たちにこんな挨拶をしました。

   私は、“自分のことを話す”という文化を大切にしてきた柴島高校が好きでした。ですので、今日は、私自身のことを話します。

   私の両親は、私が高校生のときに離婚しました。でも、幼い時から両親がときどき夫婦喧嘩する場面を見てきて、いずれはそうなるかもしれないと覚悟していたので、当時は、さほど動揺しませんでした。

   月日は流れ、私は結婚し、二人の子宝に恵まれました。確か、長男が幼稚園に通っていた頃だと思いますが、ある日、息子が私に突然、

「パパのパパは、お風呂屋さんに行ったきり、帰ってこなかったん?」

と聞きました。

私は、何のことかすぐにはわかりませんでしたが、少し考えて、これはきっと、私の母親が言ったことだろうと推測しました。息子は、ママにはママのパパとママ(おじいちゃんとおばあちゃん)がいるのに、パパにはどうしてママ(おばあちゃん)しかいないのか…と思い、私の母親に尋ねたのだろうと思いました。そして、きっと母親は、どう説明すればいいのか困り、うろたえて、当時商売をしていた父親が「銭湯に行く」と言って出かけたままなかなか店に戻ってこなかったことなどを思い出したのでしょう、「風呂に行って帰ってこない」というようなおかしな説明をしたのだろうと思いました。

それで、私も、息子の問いかけに、笑いながら

「そやねん。パパのパパはお風呂屋さんに行って帰ってこなかってん。」

と答えました。すると、息子は、

「パパも、お風呂屋さんに行って、帰ってこなくなるん?」

と私に質問しました。思わず絶句した私は、一呼吸置いて、

「パパは、どこへも行かへんよ。」

と言うのが精一杯でした。

   そして、自分にとっての「父子の問題」を本気で考えることを棚上げにしていたことに気がつきました。

   言うまでもありませんが、父親と母親がいたからこそ私がこの世に生を受けたという意味で、両親は私にとってはかけがえのない存在です。そして、顔がどことなく似ているということだけでなく、私という人格の中には、間違いなく、“父親的な気質と母親的な気質”が何らかのかたちで受け継がれています。別の言い方をすれば、(どちらが父親譲りでどちらが母親譲りなのかはよくわかりませんが)“あたたかい部分と冷たい部分”“優しすぎる部分と厳しすぎる部分”の両方が何らかのかたちで受け継がれています。

   10年ほど前に、私は、大学院(鳴門教育大学)で、臨床心理学等について勉強する機会を与えていただきました。その時に、ロ-ルシャッハテスト(インクの染みのような図を見て連想したことを答える心理テストです)の勉強会を行い、実際に私がテストを受けたことがありました。すると、後日、担当の先生が、簡単な分析のメモをくださいました。その中には、「男性性と女性性の折り合いが悪い」と書かれていました。ドキッとしました。私の中にある男性的な部分と女性的な部分がどうもうまくかみ合っていないという意味だと思いました。その先生は、私の親が離婚したということなどもちろんご存じではありませんが、私は、私自身の問題を見事に指摘されたと思いました。

   今月から、私は、八尾北高校という学校の教頭として、仕事をすることになります。柴島高校で考えたことを糧として、私は、「優しくて厳しい」教師をめざして、新しい学校で教育に取り組んでいきたいと思っています。それが実現できたら…、私の中の父親的な部分と母親的な部分が私の中で一つにまとまり統合できたら、私の両親は夫婦としては添い遂げることはできなかったけれども、私の父親と母親が出会ったことが決して無意味ではなかったことになるのではないかと思っています。それが私にできる親孝行なんだろうと思っています。

   これが、私自身の、等身大のものがたりです。

   皆さんの中には、ひょっとしたら、自分が置かれている状況や、自分が直面している問題に苦悩し、「どうして自分がこんな目に…」とか「こんなことに何の意味があるのか…」と思うことがあるかもしれません。でも、大丈夫です。あせることはありません。人生は十分に長いです。私の両親の“離婚”という出来事がそうであったように、一見マイナスに思えるようなこと、価値がないように思えることでも、月日が流れる中で、いつかきっと、自分にとっての意味が浮かび上がってくる日がくると思います。

   皆さんの幸多き人生を心よりお祈りしています。長い間、ありがとうございました。

父親は、昨年12月に他界しましたが、私の「優しくて厳しい教師」をめざすものがたりは、まだ途上にあります。これからも、鳴門教育大学において、統合の道のりを精一杯歩んでいきたいと思います。

 一年間、ありがとうございました。

 今後とも、本学の生徒指導支援センター、並びに、いじめ防止支援機構へのご支援を、心よりお願い申し上げます。