所長だより051 「翻訳」

2016年3月16日

 今月は、数人の研究者の方々と共同で取り組んでいる、いじめに関する洋書の翻訳作業に悪戦苦闘しています。

 すでに直訳は終了しており、現段階での私の役割は、日本語として、より読みやすいように、必要な意訳を行うことです。しかしながら、本格的に英文を訳すのは40年以上前の高校時代以来のことですし、教師になってからは専門は社会科でしたので、英語とはほとんど接点がありませんでした。5年前に大学の教員となり、たとえば市民性教育に関する研究でロンドン大学やロンドンの学校を訪問しインタビュー調査をしたりもしましたが、会話はいわゆるブロークン・イングリッシュしかできず、通訳の方に助けられ何とか調査を終えたようなことでした。また、研究に関連する英語の資料に目を通すことも少しはありましたが、おおよその文意を理解することと、的確な日本語に訳することとは全く別物であることを、今さらながら痛感しています。

 学校教育では、英語は私の好きな科目の一つでした。「訳す」という、他国の別言語を日本語に“コンバート”する作業の難しさ、奥深さ、おもしろさを教えてくださったのは、高校2年のときの英語を担当いただいたH先生でした。H先生は、非常に厳しい先生でした。指名した生徒がろくに予習をせずに授業に臨んでいることがわかると、準備もせずに授業に参加するなどもっての外ということでしょうか、教室からの退出を命じられることもありました。

「訳す」ことへの厳しさという意味で忘れられないのは、ある級友が「proper」の意味を「適当な」と訳したときにH先生が激しくお叱りになった場面です。「えっ?合ってるんじゃないの?」、私たちはH先生が怒られた理由がわからず、戸惑い、教室内に一瞬、微妙な空気が流れました。

H先生のお考えはこうでした。英語の「proper」は「適した」「妥当な」という意味ですが、それに対し、日本語の「適当な」には、「適した」「妥当な」という意味と並んで「ええ加減な」「その場をとりつくろう程度の」という意味もありますね。H先生は、「proper」を「適当な」と訳してしまうと、日本語の「ええ加減な」というほうのニュアンスとして伝わってしまうかもしれないじゃないか、だから正確な訳とは言えないのだ…と説明されました。なるほどと私たちは深く納得しました。自分たちの「適当な」英語学習を恥じ入りました。

ある本で、こんな話を読んだことがありました。確か、二葉亭四迷がシェークスピアのある作品を翻訳したときのエピソードだったと思います。男性と女性のラブストーリー、主人公の男性が、思いを寄せている女性に「I love you.」と告白します。女性も「I love you,too.」と返します。この場面の訳にあたって、二葉亭四迷は、男性の「I love you.」は「僕は君を愛している。」と訳しましたが、女性の「I love you,too.」の訳し方に困りました。当時の社会の女性観(その問題点の議論はここでは置いておきますが)では、女性が男性に恋愛感情をストレートに伝えるような行為は「はしたない行為」と思われていました。だから、「I love you,too.」を「私もあなたが好きよ。」と訳すと、読者はこの女性に対し「はしたない女」というイメージを抱きかねません。そこで、二葉亭四迷は考え抜いた末に、女性の「I love you,too.」をこう訳したそうです。

「死んでもいいわ。」

 見事だと思いました。そして、相手(読み手・聞き手)に「どう伝わるか」「正しく伝わるか」を丁寧に考えることの大切さを教えてくださったH先生のことを思い出しました。英語のテストでこんな訳をしたら、×をつけられるでしょう。けれども、原文の“魂”が最も的確に伝わるのは、この訳に違いありませんね。

 小学校での外国語活動をはじめ、外国語(英語)のコミュニケーション力の育成は、昨今の重要な教育課題になっています。その理由として、よく、「グローバル化した社会・時代への対応」の必要性が挙げられます。一見、もっともらしいですし、そのことを私は決して全否定するものでもありません。しかし、(所長だより027でも少し触れましたが)何人かの研究者の方が指摘されているように、これらの施策が「グローバル時代の経済競争を勝ち抜く産業兵士の育成」という政治的・経済的な要請からきているものであるという一面も、クールに見ておく必要があると私は考えています。「教育の論理」と言えども「政治の論理」「経済の論理」に無頓着であっていいとは思いませんが、かと言って、「教育の論理」がまるごと「政治の論理」「経済の論理」に取って代えられてよいわけもありません。であるならば、私たち教員は、異言語間のコミュニケーション力の問題を、単なる語学力の問題、早期学習によるスキルアップの問題などとしてではなく、H先生が教えてくださったように、“寄って立つ母語が異なる人と人が、相手の立場(相手の言語や文化)を推し量りつつ、互いの「本当の考え」「本当の気持ち」を丁寧に伝え合い理解し合えるような「出会い」のための知恵”として捉えなおすことが重要ではないか、そうすることで「競争原理」から始まった議論が「共生原理」に転換していくのではないか、それこそが「教育の論理」の本領ではないか、そんなことを私は考えています。

 と言うことで、これからまた、翻訳(意訳)作業の再開です。「死んでもいいわ。」のような名訳はとてもじゃないが思い浮かびませんが、すでに他界されたH先生の“厳しさ”と“あたたかさ”を思い出しながら、頑張りたいと思います。