所長だより048 「児童中心主義」

2016年2月24日

 奈良美智(なら・よしとも)さんの描く子どもは、「素直」「純粋」「無邪気」というようなイメージとは対極にある、独特の表情をしていますね。最近の画風は少し柔らかくなってきたようにも思いますが、これまで奈良さんが描いてきた子どもは、大人の欺瞞を見透かし、大人の期待する子ども像を拒絶し、大人の“子ども扱い”をはね退けるかのような、鋭い眼差しをしていました。私は奈良さんの描くそんな子どもの絵が好きで、研究室に何枚も貼っています。そう言えば、一昨年、兵庫教育大学の知人との共同研究でロンドン大学を訪れたときに、ある教授の研究室のドアに奈良さんの絵が掲げられているのを見つけ、驚きました。奈良さんは、村上隆さんと並んで、海外でも高い評価を受けている日本人アーティストだそうです。

 私が奈良さんの絵が好きな理由は二つあります。一つは、自分自身が子どもだった時のことを思い浮かべると、当時の自分自身を「素直」「純粋」「無邪気」等の子ども像で語る、あるいは語られるのは、何となくしっくりこない感じがするからです。かと言って「邪悪で」「ひねくれた」「反抗的な」子どもであったというわけでもありませんが、どちらかというと、奈良さんの描く子ども像のほうが、幼いときの自分のリアリティと合致するように思えます。それと、もう一つの理由は、奈良さんの絵は、「児童中心主義」を上辺だけで理解し、底の浅い「子ども礼賛思考」「子ども至上主義」に自己陶酔するような教育言説に陥ることへの警鐘になると思うからです。

 学生時代には私は日本史を専攻しました。大学に入り、マルクス、エンゲルス、羽仁五郎、井上清等の著書を、悪戦苦闘しながら読み進む中で、学校教育で学んできた「英雄史観」(歴史は偉大な英雄が作り出すものという歴史観)から「人民史観」(歴史は無名の民衆が作り出すものという歴史観)へのコペルニクス的転回に傾倒しました。たとえば、大学のクラス文集に寄せた下関の小旅行記に、私は、関門海峡を「源氏と平家の茶番劇の舞台」と記述しています。今の時代では、ちょっと何を言っているのかわかってもらえないでしょうね。当時の私は、「中世の歴史を本質的に規定しているのは武士(封建領主)と農民(農奴)の階級闘争であり、学校教育で歴史的な出来事として教えられた“壇ノ浦の戦い”などというのは封建領主間の単なる主導権争いに過ぎない」と考え、“茶番劇”と表現したのでした。

 けれども、やがて、自分の薄っぺらい「人民史観」は、実は「英雄史観」の単なる裏返しに過ぎないことに気づき始めます。そして、プレハーノフの『歴史における個人の役割』などを手がかりに、「人民史観をベースにしつつ歴史における英雄の役割を考える 」という考え方になっていきました。

 近年の教育言説では、「子どもが自ら考える」「子どもが積極的に取り組む」など、“児童生徒の主体性”がしばしば強調されます。それは、私も、重要なことだとは思います。けれども、そこには、“児童生徒の主体性”が“教師の指導性”と相まって初めて具現化するものであることを見落としてしまう落とし穴があるのではないかと私は感じています。私の薄っぺらい「人民史観」が「英雄史観」の単なる裏返しに過ぎなかったように、単純な「児童中心主義」は、実は「教師中心主義」の単なる裏返しに過ぎないのではないかと感じることもあります。そして、「人民史観をベースにしつつ歴史における英雄の役割を考える」という発想に倣えば、「児童中心主義をベースにしつつ教育における教師の役割を考える」ということが大切なのではないかと私は思っています。

 折から、教育界では「アクティブ・ラーニング」という言葉がもてはやされています。そんな中で、教師の発語ができるだけ少ないのが良い授業であるかのように喧伝され、教師が講義することがまるで“悪”であるかのような誤解も学生の中に生じています。けれども、本当の意味で「児童中心主義」に立つのであるならば、授業の展開が「児童中心か教師中心か」などは些末な問題で、大切なのは、授業で「児童の心が動くかどうか」であるはずです。そして、そうであるなら、いくら「アクティブ・ラーニング」的な活動を取り入れても、子どもの心が動かなければ意味の乏しい授業であり、逆に、たとえ一時間ずっと教師がしゃべり通す授業であっても、子どもの心が動いていれば豊かな意味を持つ授業であると私は思っています。桂枝雀の落語、吉田拓郎のライブ、こまつ座の演劇…、私の心が大きく揺れ動いたこれらのパフォーマンスは、すべて、形態としては“単方向のコミュニケーション”です。だから私は、学生たちに、「子どもたちに考えさせる工夫は大切だけれども、それは、教師としてきちんと講義ができるようになった上での問題だ。」と話すこともあります。

 学習における子どもの主体的な興味・関心に注目することも大切だとは思います。しかし、学校教育の内容は、学習指導要領・教科書・指導書等によって、子どもの主体的な興味・関心に先立って、大人の判断で編まれているものですよね。つまり、学校教育とはそもそも、予め定められた価値体系の中に児童生徒を誘導するという“原罪”を持っているということ、それは否定できない教育の一側面だと言えるのではないでしょうか。

 元中学校教諭で、筑波大学等の非常勤講師、埼玉県鶴ヶ島市の教育長等を歴任された、「プロ教師の会」代表の河上亮一さんが、30年ほど前に、公教育を批判的にとらえる反体制派教師のN先生(公立中学校教諭)と対談したようすが、別冊宝島『ザ・中学教師[プロ教師へのステップ]編』(1988)の中に、「学校を否定したって、生徒は待ってくれない!」というタイトルで収録されています。30代前半にこれを読んだ私は、とても興味深く思ったことを覚えています。たとえば、N先生は、生徒の評価について、「評価されるということが子供にはすごく重荷なわけ。苦痛なわけ。だからね、評価とかそういうことを抜きで授業をやれれば、多少は面白いんじゃないかと僕は思うわけね。」と主張します。これに対し、河上さんは、生徒との関係において教師が権力を持つ立場となり、いろんな意味で子どもを指導し管理する(対談の中では“選別する”“差別する”と表現されています)ことは、教師である限り必然的なことだと指摘しています。そして、「そういう教師の原罪性を自分からはっきり引き受けたうえで、それを自分で無化したと思い込むことではなく、日々の生徒とのかかわりでどう解体してゆくのかを追及してゆくこと」が大切であると述べています。さらに、「世の中にはいろんな生き方があるんだってことを教師自身が示すことが悪いわけじゃないでしょ。」というN先生に対し、河上さんは、「そんなことしゃべったって、自分を救っているだけで生徒とは関係ないでしょ。」と厳しく批判しておられます。今振り返れば、私は、“生徒中心主義”を装いつつどこかしら“腰の引けた”指導しかできない自分と、N先生の言葉との共通性を感じながら、河上さんの言葉を、痛いけれどもある意味「そういうことなんだろうなぁ」と受け止めながら読んでいたように思います。

今は、私は、教師が自らの“原罪”を自覚し、引き受け、そして葛藤する中からこそ、「児童生徒の主体性」が浮かび上がってくるのであり、“原罪”を自覚しない教師には「児童生徒の主体性」など見えやしないのではないかと考えています。教師、カウンセラー、政治家、宗教家…、何らかの意味で「他者を援助する」これらの専門職は、常に“ウサン臭さ”と紙一重のところに立たざるを得ないものだと思います。そして、己の“ウサン臭さ”を自覚することこそが、本当に“ウサン臭く”なってしまうことを回避する唯一の手段ではないかとも思います。

教育の“原罪”“ウサン臭さ”の自覚、その中に、奈良美智さんが描く子どもの、社会や大人に対する“鋭い目線”と正面から向かい合うためのヒントがあるのではないでしょうか。

 

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