所長だより043 「勇気づける言葉」

2016年1月20日

 先日、学生に対し教員採用試験の個人面接の指導をしていて、以前にある県の面接試験で出題された「面接官を元気づけるような歌を1曲選んでワンフレーズを歌ってください」という課題を与えました。学生は、一瞬驚いた表情になりましたが、真剣に曲を探して、アンジェラ・アキさんの『手紙拝啓十五の君へ』の一節を歌ってくれました。所長だより038で触れましたが、徳島の板野町生まれのシンガーソングライター、アンジェラ・アキさんのこの曲は、私も講演などでよく紹介する歌でもあり、学生の透明感のある歌声にすごく感動しました。「負けないで、泣かないで」頑張ろうという気持ちにさせてくれました。なまじっかあれこれとたくさんの言葉を費やすより、端的なメッセージのほうが、人を勇気づけるのかもしれませんね。

 ちなみに、私がもし同じよう課題を与えられたら、1998年の19(ジューク)の曲『あの青をこえて』を歌うだろうと思います。大学院の授業でも、BGMに流しながら、その一節を思わず歌ってしまったことが一度だけあります。(心優しい院生の皆さんは、拍手をしてくれました。)私が大好きなのは、「生きてゆく事は 掛けて行く事 僕らしく意味を 追い駆けて どんなにもチャンスが めぐってきても 僕がゼロなら 意味がない」という部分です。0には何を掛けても0にしかならない、だから、どんなにチャンスがめぐってきても、自分が0だと(自分が主体的な生き方をしていないと)意味がない…、という歌詞です。流行していた当時、キャリア教育の資料に活用したり、顧問をしていたフォークソング部の生徒と一緒に発表会で歌ったりした、思い出の曲です。

 総合学科の高校に勤務していたときに、従来の教科・科目の枠を超えた「総合選択科目」として、私は『カウンセリング』を開講しました。その中で、三浦綾子さんのエッセイ集『忘れえぬ言葉』の中の「必ず治ります。今しばらくの試練ですからね。」という文章を題材にした「『希望』の意味を考える」という教材を作ったことがありました。(以下が、三浦さんの文章の要約です。)

 

7月5日は、私の受洗記念日である。今から31年前の1952年のその時、私は脊椎カリエスでギプスベッドに入ったばかりであった。原因不明の微熱が前年からつづいていた。肺からの熱ではなく、脊椎カリエスのための熱ではないかと、私はしばしば思っていた。が、診断はなかなか下されず、脊椎カリエスと決まった時には、ギプスベッドに絶対安静を守らねばならなくなっていて、私は医学に強い不信を抱くに至った。

 そんな中での、私の受洗であった。何もかも信じられなくなって、しかしイエス・キリストの愛だけは信ずることが出来るという幸を私は得た。その日私に洗礼を授けるために、札幌北一条教会の小野村林蔵牧師が病室に見えられた。小野村牧師は戦時中非戦論をとなえたために、捕われの身となった尊敬すべき牧師であると聞いていた。厳しい牧師であるとも聞いていた。だが、私の前に現れた小野村牧師は、常日頃は炯々たる眼光を放っているかも知れぬその眼に、言いがたい優しさを見せていた。今後何年療養しなければならぬかわからぬ私の身を案じての、愛のまなざしであったのだろう。洗礼を授けて帰る間際に、牧師はじっと私を見つめながら言われた。

「必ず治ります。今しばらくの試練ですからね」

 私は幼な子のように素直にうなずいた。当時の医療体制では、カリエスは必ず治ると言える病気ではなかった。だが小野村牧師のその言葉は、その場限りの言葉とは思えなかった。私はその言葉を、先生の心の底から出た確信に満ちた言葉として受け取った。もしあれが、お座なりを言う人の言葉であったなら、私の心に深く沁み入ることはなかったであろう。言葉は人格の所産である。その後私は、小野村牧師に一度も会ってはいない。つまり、生涯にただ一度しか会ってはいないのである。にもかかわらず、その時の小野村牧師の、

「必ず治ります。今しばらくの試練ですからね」

という言葉は、その後しばしば私に思いがけない力と希望を与えた。言葉というものは、私たちが思っているよりも、もっと強い力を持っており、もっと神秘的なものだと私は思う。

 それにつけても思い出すのは、私自身が言った心ないひとつの言葉のことである。女学校を卒業する時、私たち生徒は、ノートに教師や友人たちの別れの言葉を書いてもらったものだった。その人Mさんはクラスの中でも容姿端麗な人だった。私はそのMさんにサインを頼まれて、ちょっと考えた。と言うのは、彼女の親しい友人たちは、何か彼女をちやほやしているように見えたからだ。それは私の誤解であったかも知れない。だが私は、この人のために真実の言葉を書くべきではないかと、自分自身に言い聞かせた。そして私は書いた。

「あなたは、このままの生き方では不幸になります。」

 私としては、それは精一杯の友情のつもりであった。だが、言わば前途を祝福すべきノートに、不幸という言葉を使ったのは、あとで考えるとあまりにも心ない仕業であった。私は彼女の幸福を願って書いたつもりではあったが、さぞ胸に刺さったことであろう。私は時折そのことを思い出しては、心のうちに詫びていた。

 月日が流れ、20数年も経ってから、クラス会で彼女に会った時、私は思い切ってそのことを言い、改めて詫びた。彼女は、

「あら、あなた覚えていたの? 私も覚えていたわよ。あなたが覚えていたのなら、許してあげる。」

 と明るく笑った。彼女は卒業後、それまでの20数年の人生の中で、不幸の波もくぐった。だが、自分の進むべき道を確立し、多くの入に敬愛される生活を築き上げたのである。彼女の生活の中で、私の言葉がどのように作用したか知らないが、私は自分という人間を測るひとつの尺度として、この言葉を書いた自分を、忘れてはならぬと思っている。

 人間は、小野村牧師のように、長い間その人を慰め、励まし、絶望から立ち上がらせる言葉を、胸にたくさん蓄えておかねばならない。一生涯使っても使い切れぬほどたくさんに。

 

 私自身が三浦さんのこの文章の中でいちばん勇気づけられ、救われたのは、「私は自分という人間を測るひとつの尺度として、この言葉を書いた自分を、忘れてはならぬと思っている。」とう部分です。

 2003年に、臨床心理がご専門のある先生から声をかけていただき、生徒指導上の事例に係る共同研究に、高校教員として参加させていただいたことがありました。その中で、いじめに関する知人の報告の意味を考えていて、私自身の児童期の加害体験が生々しく蘇ってきました。

 小学校4年のある時期、私は、人(教師・親・おとな)のいないところで、同級生のA男などに対して暴力をふるっていました。A男は在日朝鮮人の子どもでした。あるとき、A男に対する暴力が親に発覚し、私は父親にA男の家に連れていかれ、A男と彼の父親の前で殴りとばされました。怒りの目をしたA男の父親が、「わかりました」と赦しの言葉を口にされたことをよく覚えています。

勉強のできる「優等生」であった私は、いつもおとなの(評価の)目を意識していました。そんな自分とは対照的に、A男は、当時の日本社会の過酷な民族差別の故か、「子どもらしさのない、暗い目をした、おとなに媚びない」存在でした。今になって考えると、そんなA男の存在は、私にとって自分自身の安定を揺さぶる脅威であったのだろうと思います。暴力をふるっていた場面を振りかえると、私の加害の根底にあったのは、A男に対する、自分でもよくわからぬ苛立ちからくる抑えようのない攻撃性であり、ハラの底から湧き上がる統制困難な力だったように思います。そして、そのような衝動の意味とほんとうに向かい合うまでに、私は30数年の歳月を要しました。

大学入学後、私は朝鮮問題に関係した市民運動にかかわり始めました。しかし、小学4年時の出来事は、心の底に封印され、私の意識に上ることはありませんでした。自分の心の闇と正面から向かい合うことを怖れていたのかもしれません。その結果、私は、運動家としての自分の姿勢の中に、「弱者の代弁者」が陥りがちな傲慢さ・強迫性があることをどこかで感じていました。そんなしこり・こだわりから解き放たれて、力まずに「差別」「人権」を語ることができるようになったのは、40代半ばになってからです。そして、時を同じくして、それまで長い間「できることなら自分の歴史から消し去りたい」と思っていた小学4年時の加害体験を、「おのれという人間の小ささを忘れないがための出来事」として、三浦さんの言葉をお借りするならば、「自分という人間を測るひとつの尺度として、小学校のときに暴力をふるった自分を、忘れてはならぬ」と総括することで、ようやく受け入れることができたのでした。

 

 『カウンセリング』の授業では、三浦さんの文章の後に

 

【設問1】

あなた自身が言ってしまった「心ないひとつの言葉」を思い出して、その場面を再現してまとめ、今振り返って思うことを書いてみよう。

【設問2】

「人を慰め、励まし、絶望から立ち上がらせる言葉」をひとつ作ってみよう。または、あなたが人からもらった言葉、本などで出会った言葉をあげてみよう。

 

という二つの設問を設けました。設問2の回答で、生徒が作った「勇気づける言葉」には、

  どんな川でも、いずれは海に出る

出口のない入口はない

いつかは雨も上がる

などがありました。また、人からもらった「勇気づけられた言葉」には、

君たちはすばらしい(中1のときの担任から)

まだ卵やし、のんびりしなさい(先生から言われて嬉しかった)

私はゴミ箱になりたい(友達が言った言葉。自分のことだけでも大変だというのに、人の辛さを受け入れる、そんなゴミ箱になりたいと言った。私も頑張らないとと思えた一言。)

などがありました。中でもいちばん印象に残っている言葉は、ある生徒が、幼稚園のとき、泣き虫でいつも泣いていたら、先生に言われたという言葉です。

今、そんなに泣いたら、本当に悲しいときに泣けなくなるよ。

そう言われて、なぜか泣き止んだそうです。「優しくて厳しい教師」の言葉として、私は大学の授業でもときどき紹介しています。

 「長い間その人を慰め、励まし、絶望から立ち上がらせる言葉」、これからも、学生・院生と一緒に、探し続けたいと思っています。