所長だより039 「普通の人」

2015年12月23日

 「普通の人」と言えば、私たちの世代の人間には、3人組アイドルのキャンディーズの「普通の女の子に戻りたい」という解散宣言が思い浮かびます。

 「普通の人」ではない「特別な人」とは、マスメディアにたびたび登場するタレント、芸能人、評論家等ですね。キャンディーズもピンクレディもそうであったように、彼らは、大なり小なり、本来の自分自身(がやりたいこと)と、メディアに求められる役割のギャップに苦悩するようです。しかし、メディアにとってはそんなことは問題ではなく、彼らはメディアを通じて大衆に消費される存在であり、ブームが来ると露出が増え、旬が過ぎると消えゆく宿命にあります。

 その象徴的な存在が、お笑いの世界の「一発屋」ですね。

 1218日のwithnewsで、お笑いコンビ「髭男爵」の山田ルイ53世さんの文章を読み、思わず「頑張れ」「見返してやれ」とエールを送りたくなりました。

 髭男爵は、貴族の衣装で舞台に立ち、グラスを片手に「ルネッサーンス」のかけ声で乾杯するギャグで数年前に人気を博した漫才コンビです。しかし、その人気は長続きせず、今では「一発屋」を扱う番組でたまにテレビに登場するだけになりました。

 2~3年前、山田さんが居酒屋で知人と飲んでいた時のこと。隣の席にカップルが座り、上機嫌の男が「ルネッサーンス!」と叫んだそうです。山田さんは、「まだやってくれているのか…」と驚き半分、嬉しさ半分。ところが、次の瞬間、彼女は、

「ちょっと!そんな古いやつ、恥ずかしいからやめてよ!」

山田さんは、こう書いています。

「意気消沈する彼氏。気まずい空気が流れた…主に我々のテーブルにだが。僕は、周囲にばれないよう、そっと席を立ち、会計を済まし、店を出た。その“恥ずかしい”やつで稼いだお金で。」

一発屋には、「一発屋仕事」と呼ぶしかないような仕事しか入ってこないそうです。

「例えば、“旬な食材”を紹介する企画で、“旬ではないもの”の代表として何組か集められたり。街頭インタビューを行い、我々のことを覚えている人が現れるまで帰宅できなかったり。『一発当てた』ということにひっかけてだろう、競艇場や競輪場、パチンコ店のイベントに招かれたりもする。」

一発屋が集められて、最も売れていた時期の月収を暴露するという番組もあるそうです。発表すると、他の出演者たちが、「え―!」と、驚愕の声をあげます。

「いやいやいやである。勿論、みなさん、それぞれの“役割”として“リアクション”しておられるに過ぎない。そんなことは重々承知している。それでも心のどこかで思ってしまうのである。あくまで僕の勝手な憶測に過ぎないが、そういう人達の方が、むしろ、当時の我々の“最高”などより“もっと”、そして、“ずっと”、さらには“今まさに”、そしておそらくは“これから先も”、何年にも渡って稼ぐはずである。『え―!』はこちらの台詞なのだ。」

「大体、この手の企画は、この後、今現在の月収を発表し、その落差、落ちぶれ具合を堪能していただくという流れを経て、幕を閉じる。」

山田さんは「なんとも下衆な場面」と書いていますが、本当にそう思います。単なるバラエティ番組として、何気なく見ている人もいるかもしれませんが、「一発屋」と呼ばれる人々あざけるような「下衆な番組」を視聴者が本気で求めているとは到底思えません。それは、番組作成者の企画力の貧相さを表しているにすぎないように感じます。

 所長だより037で「プライド」について書きました。一発屋と呼ばれる芸人たちの「プライド」は…?

ある時、取材に来た記者から“落ちぶれた現状”を聞かれた山田さんの相方の樋口さんが、「僕なんか先月18万円でしたよ~!」と言うと、「一発屋のくせに18万は貰いすぎだ!」と、一部からSNS等で突っ込まれたそうです。

「この話が一層悲しみを帯びるのは、実際には、“彼の先月”は17万円だったらしく、彼は一万円分見栄を張っていたということである。その上乗せされた一万円で、彼が自分の心の何を守ろうとしたのか、それを“プライド”と呼んでいいのか、それは僕にも分からないが。」

繰り返しになりますが、私は思わず、「頑張れ」「見返してやれ」とエールを送りたくなりました。転職を図り「普通の人」に戻るのならともかく、一旦「特別な人」となってしまった髭男爵がこれからも髭男爵として生きていくのであれば、たとえ「下衆」な面を持つ世界ではあっても、そこで力を発揮するしかありません。山田さんの文章を読んで、そんな世界だとわかった上で、もう一度注目される存在になって、見返して欲しい、そして、こんな素敵な文章を書ける人間臭い人なのだから、虚の世界で自虐的な役割を演じつつ、観る人に“あざける笑い”を提供するだけではなく、どこかにペーソスが漂い、観る人の共感を引き出す新しい芸風を作り出してくれるのではないかと期待したくなります。「ヒロシです」のギャグで一発屋となったヒロシさんも、したかかに、そんな道を歩みつつあるような気がします。

 と同時に、私たち一般人が、「もてはやす」と「こきおろす」の両極端しか持たないメディアに消費されずに、「普通の人」であり続けるためには、「特別な人」扱いされそうなときこそ注意する必要があるのではないかと思います。

 関川夏央さんに『「ただの人」の人生』(1997)という著書があります。この中で、関川さんは、韓国の新聞「朝鮮日報」の主筆であったソヌフィさんのエピソードを紹介し、「“ただの人”でなくなる危険性」について述べています。

 時は韓国がまだ軍事独裁政権下にあった頃、ソヌフィさんは、金大中氏拉致事件に際して、検閲済みの原稿を差し替えて当局の対応を批判する社説を載せました。その結果、日本やアメリカの特派員からインタビューをされるなど、反体制の英雄として持ち上げられそうになりました。

 ソヌフィさんは、そのとき、瞬間的に「これは危ない」と感じたそうです。

「危ないというのは、なにも当局によってどうかされるというのではなく、もしかしたら私という人間はだめになる、これはいかんと反省したわけです。もしもちょっとした客気(かっき)を出したならば、あるいは金大中さんとか金芝河君あたりよりも有名になったかと思います。しかし私は、そうではなかったのが幸いであったと思います。」

ソヌフィさんのこの言葉を紹介しながら、関川さんは、こう書いておられます。

「わたしがいくらか朝鮮について学ぼうとしたのは、国家と国家、民族と民族の関係にあらず、『ただの人』と『ただの人』との関係にいくらかの信をおくことができたからである。」

「もとよりわたしは『正義の人』にはなれない。なりたくない。『正義の人』より『ただの人』たれ、声高に運動するより、礼節ある無関心の方がどれほどましかわからないと教えてくれたのは、ソヌフィの、言語と人柄と風格とであった。」

 私自身も、最近は講演させていただく機会、雑誌などに文章を書かせたいただく機会が増えてきましたが、「識者」などと持ち上げられ、「ただの人」「普通の人」のまなざしを見失ってしまうことがないように自戒しなければいけないと思う今日この頃です。