所長だより034 「日本生徒指導学会群馬大会」

2015年11月18日

 1114日(土)~15日(日)に、群馬大学を会場に、日本生徒指導学会第16回大会が開催され、生徒指導支援センターからは、私と竹口先生が参加しました。

 私は群馬県を訪れるのは初めてなので、JRの車内放送で「岩宿」という駅名を耳にしたときは、高校の社会科教師として日本史などを教えてきたこともあり、「あ、そうか、群馬県と言えば『岩宿の発見』『相沢忠洋』の、あの岩宿遺跡のある県やなあ…」と、ちょっと感動したりしました。

 

 総会では、本学の特任教授でもある森田洋司先生が、学会の会長に再任され、本学の教員では、阪根健二先生と私が引き続き理事を務めさせていただくことになりました。総会の後、第1日目は基調講演とシンポジウムが、第2日目は分科会での自由研究発表が行われました。

 基調講演では、森田洋司先生が「子どもの主体的な活動を育む生徒指導-いじめ問題を踏まえて-」の演題で講演されました。この中で、森田先生は、今年の8月4日に出された文部科学省の通知文「いじめ防止対策推進法に基づく組織的な対応及び児童生徒の自殺予防について」に触れて、いじめの認知に関して留意すべき点言及されました。また、「いじめ心は私たちの心のどこかに潜んでいる」という観点から、「悪(邪な意思)が悪(いじめ)をつくる」だけではなく、「善(善なる意思)が悪(いじめ)をつくる」こともあると指摘されました。さらに、「ソーシャルボンド」「社会的リテラシー」「ダイアローグ(対話)」などをキーワードに、いじめ防止の方向性について問題提起をされました。

 中でも、私が最も印象に残ったのは、「私的責任領域への方による介入と自律性」というテーマについてのお話しでした。

 

 いじめ防止対策推進法の第4条には、こう書かれています。

   (いじめの禁止)第4条 児童等は、いじめを行ってはならない。

 私は、初めてこの条文を見たときに、正直に言うと、ある種の違和感を覚えました。もちろん、「いじめを行ってもよい」わけはありませんし、いじめが大きな社会問題となって、国会でも取り上げられ、そんな状況の中で法律で「いじめ防止」が明確に定められたことの意義もわからないわけではありません。けれども、あえて批判的に言えば、たとえば「児童等は、うそをついてはいけない」というような文章と同じような、「建前論」「上から目線の禁止メッセージ」という印象を拭えませんでした。

所長だより012 「受苦的かかわり」でも書きましたが、私が勤務したある高校では、正論だけを言い置いて「後は君の努力の問題だ」等と言い放つ指導を〈言い置き指導〉と呼び、そうなることを自戒する文化がありました。法制度や通知などの行政行為は、必然的に理念・正論の「言い置き」にならざるをえないものかもしれませんが、私がいじめ防止対策推進法の第4条に違和感を抱いた理由の一つは、まさにそのような「言い置き」のニュアンスを感じ取る中で生まれたものであったように思います。

 それと、森田先生のご講演の中での「私的責任領域への方による介入と自律性」についてのお話しから、私は、第4条への違和感のもうひとつの理由に気づきました。それは、「いじめの禁止」とはそもそも法律によって定められるべき問題なのかという疑問でした。森田先生は、いじめのように、本来は私的責任領域(国民自身によるインフォーマルなコントロール領域)に属する問題について、公的責任領域(警察・関係機関等のフォーマルなコントロール領域)が介入するということ、言い方を変えれば、「官」が「民」に介入するということは、基本的には私的責任領域の自律性(autonomy)という前提の崩壊を意味すると指摘されました。そのご指摘は、第4条について私が「法律で定めることなのか?」と感じたこととも関係しています。もっとも、森田先生は、公的介入を批判されたわけではなく、「子どもたち自身で集団の問題を解決する能力の弱まり」「自殺・不登校等、成長・発達への深刻な被害の発生」という状況の中で緊急避難としての危機介入が必要であるという判断からなされた措置であると話されました。さらに、「子どもを守り、子どもを育む」社会の構築に向けた「私的責任領域への公的介入の原理」として

   1、被害性への介入による制御

   2、モラリズムに基づく介入による制御

   3、未成熟性への介入による制御

の3つの原理を示されました。そして、いじめ問題の本質は「集団の自律性の問題」であり、恐怖・脅威による介入は自律性の育成につながらないと指摘されました。

 いじめ防止対策は、この間、推進法の制定、基本方針の策定というかたちで進められてきました。その意義は極めて大きいものがあると私も思います。けれども、たとえば「法によるいじめの禁止」を「当然のこと」「自明のこと」として素通りするのではなく、そのことの根源的な意味を考え続けることの大切さを、森田先生のご講演から私は学ぶことができました。

 いじめ防止対策において、「当然のこと」「自明のこと」として素通りしていいのかという問題は、他にもあるように私は思っています。たとえば、「いじめは人間として許されない」「いじめ加害を傍観することはいじめに加担することと同じ」「勇気を持って相談しよう」などの言説も、その意味は一定理解しつつも、私は簡単に素通りしていいのかという問題意識を持っています。

   「いじめは人間として許されない」

      →人間の原罪・罪業の問題をどうとらえるのか?

   「いじめ加害を傍観することはいじめに加担することと同じ」

      →傍観者の内面の葛藤・苦悩の理解につながるのか?

   「勇気を持って相談しよう」

      →相談しない(大人の介入を快しとしない)のは勇気がないからなのか?

 

 歴史学の世界では、1949年までは、日本においては旧石器時代は存在しないというのが「当然のこと」「自明のこと」とされていました。けれども、在野で行商のかたわら独学で考古学を研究していた相沢忠洋は、石器などあるわけがないとされていた関東ローム層の地層から打製石器を発見し、日本における旧石器文化の存在を明らかにしました。

 私たち在野の(現場の)教員も、何よりも教育現場のリアリティを大切にし、施策を「当然のこと」「自明のこと」として素通りさせるのではなく、根源的な意味を問い続ける中で、新しい「発見」を得て、いじめ防止対策に取り組んでいきたいと私は思っています。