所長だより031 「加藤和彦」

2015年10月28日

歌手の加藤和彦が亡くなって、早や6年が経ちました。20091017日没、享年62歳でした。自殺でした。ショックでした。

 

 いじめ問題、とりわけいじめによる自殺の問題は、私たちにとって大きな教育課題となっています。

 文部科学省は、平成21年3月にマニュアルとリーフレット『教師が知っておきたい子どもの自殺予防』を作成し、平成26年7月には、『子供に伝えたい自殺予防(学校における自殺予防教育導入の手引)』を作成しました。文部科学省のホームページからダウンロードできますので、一度、ご覧ください。その内容は、児童生徒の自殺予防の問題を考える上で大いに参考になるものですが、一点だけ、私は少しひっかかったところがありました。それは、「子どもが自殺という行為に及ぶ前には、救いを求める必死の叫びをあげていることがほとんどです」(リーフレット『教師が知っておきたい子どもの自殺予防』)という部分でした。

 本当に「必死の叫びをあげていることがほとんど」と言いきれるのか…。大切な家族を、友人を、あるいは教え子を自殺で失った人たちは、それまでまったく何も感じていなかったわけではないにしても、むしろ、命を絶ったという報を受けた際には「まさか」という思いで絶句されることが「ほとんど」ではないのか…。実際に大切な人を自殺で失った知人のようすを見ていると、私はそう感じています。そして、この人たちは、「救えなかった自分」に苦悩しておられます。

文部科学省のマニュアル『教師が知っておきたい子どもの自殺予防』の「第7章自殺予防に関するQ&A」には、「自殺が起きてしまいました。できる限りの努力をしていたつもりでしたが、決定的なサインを見逃したのは私の責任ではないかと自分を責めてしまいます。」という質問に対し、「何のサインにも気づかずに、青天の霹靂のように自殺が起きることもあります。あるいは、薄々、子どもの最近の行動の変化に気づいていたり、明らかに心の病があって、家族や精神科医療機関と連携をしながら、子どもを一生懸命に見守っていたのに、自殺が起きてしまうこともあります。」という回答が書かれています。このように、文部科学省も、単純に周囲の人たちの「責任」を追及することを考えているわけではありません。

しかし、特に「いじめによる自殺」に関しては、「明らかなサインを受けとめない、アンテナの鈍い教師」という見方が世間に流布しているのではないでしょうか。でも、ことはそんなに簡単ではないと思います。

人が「なぜ死ぬのか」という問いは、人が「なぜ生きるのか」という問いと表裏の関係であるはずです。そうであるなら、そんなに簡単に、原因・理由・目的・根拠などを説明できるわけがないのではないでしょうか。私自身も、これまでの人生で「死んでしまいたい」と思ったことが一度もなかったわけではありませんし、改まって「あなたはなぜ生きているのですか」と問われたらすぐに言葉が出てくるわけでもありません。ある精神科医は、自殺した患者さんが、直前まで、仕事や旅行などの今後の予定を周囲と話していることはむしろよくあることだとおっしゃっていました。自殺した方も、その瞬間の直前まで、生と死の狭間で揺れているというのがむしろ「ほとんど」なのではないかと私は思います。

 

加藤和彦が亡くなる1カ月前の2009年9月20日、静岡県の「つま恋」で開催された、南こうせつの野外コンサート「サマーピクニックフォーエバー」に行きました。舞台には、事前に発表されていた、伊勢正三・松山千春・イルカ・小田和正・夏川りみ・BEGIN・森山良子などのゲストも登場しました。そして、シークレットゲストとして、加藤和彦と坂崎幸之助が登場しました。二人は、『イムジン河』『あの素晴らしい愛をもう一度』などの名曲を歌ってくれました。加藤和彦の自殺は、そのわずか1か月後の出来事でした。「まさか…」と言葉を失いました。

 

私のやってきた音楽なんてちっぽけなものだった。

世の中は音楽なんて必要としていないし、私にも今は必要もない。

創りたくもなくなってしまった。

死にたいというより、むしろ生きていたくない。

生きる場所がないと言う思いが私に決断をさせた。

 

遺書にはそう書かれていました。その言葉も、ショックでした。

 若い方はご存じないでしょうが、私たちの世代は、加藤和彦と聞くと、1960年代後半に活躍したフォーク・バンド「ザ・フォーク・クルセダーズ」(略してフォークル)が真っ先に思い浮かびます。フォークルは、加藤和彦、北山修、はしだのりひこの3人のメンバーで構成され、世間ではオリコンチャート史上初のミリオン・シングルとなったコミックソング『帰って来たヨッパライ』が有名ですが、それ以外にも、『イムジン河』『悲しくてやりきれない』(加藤和彦作曲・サトウハチロー作詞)『青年は荒野をめざす』(加藤和彦作曲・五木寛之作詞)などの曲を残しています。

 フォークル解散後、北山修は、時折、音楽活動もしながら、精神医学者として活躍します。私の研究室の本棚にも、『言葉の橋渡し機能及びその壁』などの著書が数冊、並んでいます。一方、加藤和彦は、「サディスティック・ミカ・バンド」などのバンドを結成したり、3代目市川猿之助のスーパー歌舞伎の舞台音楽を担当したりと、多彩な才能を発揮してきました。2007年には、アルフィーの坂崎幸之助とのユニット「和幸(かずこう)」を結成、大阪でのコンサートには私も行きました。

「世の中は音楽なんて必要としていない」

 そんなこと、決してありませんよと、加藤さんに伝えたいです。誰もが、落ち込んだ時、ピンチの時に励まされた、大切な音楽を持っていると思います。私の場合は、それは、吉田拓郎の曲であり、フォークルの曲でした。映画「パッチギ」のラストにも使われた『あの素晴らしい愛をもう一度』(加藤和彦作曲・北山修作詞)のイントロを耳にした瞬間に、いつも涙腺が緩みます。そして、心がささくれ立っているときも少しは穏やかな気持ちになれます。

 加藤和彦は、晩年、鬱病と診断されていたそうです。

北山修の苦悩は、特に、深かっただろうと思います。きっと、長年の友人として彼を救えなかったことと、精神科医として彼を救えなかったことの、二重の自責の念に苛まれたことだろうと思います。彼は、加藤和彦を失った後、しばらくは、何かの拍子にボロボロと涙がこぼれ、研究活動も音楽活動もできなかったようです。

3年の月日を経て、北山修は坂崎幸之助とフォークルを再結成し、アルバム『若い加藤和彦のように』を出します。そして、レクチャー+ミニコンサート「きたやまおさむアカデミックシアター『加藤和彦物語』」を開催します。2013年9月8日の大阪公演には私も出かけました。

 コンサートでは、加藤和彦の遺作となった、残されていたデモテープのメロディーに北山修が歌詞をつけた『若い加藤和彦のように』も歌われました。

 

数え切れぬ血が流れ  涙枯れてしまおうと 

若い加藤和彦のように 見果てぬ夢を追って

地の果てまで旅をして 海の底へ沈んでも 

絶望せずに最後の天使 微笑みは絶やさない

きっとあるさ自由な空 みんなあきらめても

冬の風に凍てついて  飛べる翼もがれても 

若い加藤和彦のように 何度も舞い上がる

 

そして、コンサートの最後の曲に選ばれたのは、『人生という劇場』でした。この曲は、加藤さんが亡くなる前年の2008年に、北山修作詞、加藤和彦作曲で「トワ・エ・モワ」に書き下ろした曲です。

「ねえ教えてよ 私、醜くないか ねえ教えてよ 私、愛されてるか」

「ねえ教えてよ 私、価値があるかな ねえ教えてよ 私、意味があるか」

そんな言葉が歌詞に出てきます。

「私のやってきた音楽なんてちっぽけなものだった」

「世の中は音楽なんて必要としていない」

加藤さんの最後の言葉との符合に驚かされます。

そして、「本当にたくさんの価値・意味をいただいた、おおきなものでしたよ」と叫びたくなります。

フォークル、そして北山さん、加藤さんは、ウェットな(あるいはホットな)在り様よりも、軽妙、洒脱なスタイルにこだわってこられました。だから、『人生という劇場』を歌った後も、北山修は「こんな終わり方、一番嫌いだから」と言って、坂崎幸之助さんは、さわやかな表情で「ありがとう加藤和彦!」と、北山修は「加藤、悔しかったら戻ってこい!」と、加藤さんに声をかけました。

 あるファンは、ブログにこう綴っていました。

 

残された者は生きていかなくては、なりません。だから、本当に悔しいし、さみしいけれど、何かしら、区切りをつけて、前に進むしかありません。「私の作った音楽はちっぽけなものでした」と言う一節がありましたが、北山先生の言われる通り、こんなにも大きなものです。だから、歌い続けて、歌い継いでいきたいのです。…私も、あの笑顔に騙されてしまった多くの一人です。だからこそ、忘れたくないのです。だって大好きなんですもの。

 

 「意味がない」と自ら命を絶った人のことを決して忘れず、救えなかったことの意味を、そして彼が存在していたこと意味を考え続けること、それが、縁があった者に与えられた大切な課題なのだと思います。