所長だより029 「顧客を大切にすること」

2015年10月14日

 和菓子店「虎屋」の本店が本社ビルの建て替えに伴い営業を一時休止することについて、17代社長の黒川光博さんがホームページに掲載した次の挨拶文が、話題になっているそうです。

 

 

この店でお客様をお迎えした51年のあいだ、多くの素晴らしい出逢いに恵まれました。

3日にあげずご来店くださり、きまってお汁粉を召し上がる男性のお客様。

毎朝お母さまとご一緒に小形羊羹を1つお買い求めくださっていた、当時幼稚園生でいらしたお客様。ある時おひとりでお見えになったので、心配になった店員が外へ出てみると、お母さまがこっそり隠れて見守っていらっしゃったということもありました。

車椅子でご来店くださっていた、100歳になられる女性のお客様。入院生活に入られてからはご家族が生菓子や干菓子をお買い求めくださいました。お食事ができなくなられてからも、弊社の干菓子をくずしながらお召し上がりになったと伺っています。

このようにお客様とともに過ごさせて頂いた時間をここに書き尽くすことは到底できませんが、おひとりおひとりのお姿は、強く私たちの心に焼き付いています。

 

新たな店でもたくさんの方々との出逢いを楽しみにしつつ、これまでのご愛顧に心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

虎屋17代 代表取締役社長 黒川光博

 

 私も、ホームページを見て、素敵な挨拶文だなと思いました。

ここには、顧客満足 customer satisfaction などという言葉は、一度も出てきません。「わが社は、顧客満足を大切にし、お客様に喜んでいただけるよう頑張っています」「本社は、CSの向上をめざし、お客様の期待に応える商品を用意しています」というような、顧客満足というキーワードに依拠したメッセージではありません。けれども、顧客満足というキーワードを使わずに、具体的な人(客)の姿を丁寧に記すことで、結果的に顧客満足の姿勢を見事に表し、お客さんに対する温かいまなざしがひしひしと伝わってくる文章となっています。

ひょっとしたら、教育言説においても、同じことが言えるかもしれません。鍵となる考え方を、キーワードを使わずに、具体的な人(児童生徒)の姿を丁寧に記すことで表すほうが、人の心に届くものなのかもしれません。

河合隼雄先生は、出会い・愛・やさしさ・実存等の言葉を「ファイナル・ワード」と呼び、「一番最後に言うべきことを初めから言われたらたまったものじゃない」と述べておられます(河合隼雄・谷川俊太郎、1979年「魂にメスはいらないユング心理学講義」)。

生徒指導における「児童生徒理解」「共感」「自尊感情」「豊かな人間性」等々の概念も、実践的・臨床的な生徒指導研究においては、できるだけ、そのようなキーワードを使う回数を抑えて、具体的な児童生徒の姿(≒事例)に基づいて記述することが重要ではないかと思います。

概念は概念であって、それ自体は何のリアリティも持たないものです。にもかかわらず、私たちは、たとえば「児童生徒理解が重要」と記せば「児童生徒理解」が実現したかのように思い込んでしまうことがあります。私は、教育言説におけるこのような落とし穴を「言葉主義」と名付けて、自分もそうならないようにしなければいけないと自戒しています。そういう意味では、具体的な児童生徒の姿、事例に基づき記述することは、「言葉主義」に陥らないための方法論であると言えるかもしれません。

「最も個人的なことは、最も普遍的である。」

ロジャーズが、主観的普遍性、個別事例的普遍性について語ったこの言葉が、「虎屋」の挨拶のインパクトの秘密を物語っているように思います。

それから、「虎屋」を巡って、もうひとつ、心に残ったことがあります。

挨拶文についてあるマスコミが「虎屋」に取材を依頼したところ、「赤坂本店休業にあたっての社長の想いは、ホームページに掲載したメッセージにすべて込められております。大変有り難いお話ですが、この度はご辞退させていただきたく存じます。」と回答されたとのことでした。

「メッセージにすべて込めている」という、ある種の「潔さ」に私は感銘を受けました。「メッセージにすべて込めている」とは、言い換えると、「日頃のお客さまとの出逢いにすべて込めている」ということになるかもしれません。それほどの想いで書ききったメッセージであるからこその取材辞退なんだろうと思いました。重ねての過剰な解説・説明・アピールは、かえってメッセージの力を損なってしまうのかもしれないと思いました。

「潔さ」は、近年、失われつつある徳性の一つではないかと私は思っています。たとえば、甲子園の高校野球で、試合終了時にホームベース付近に整列して行う挨拶。今では恒例になっている、「一礼」のあとの両軍選手の歩み寄り、握手、声かけなどは、私の記憶では、30年ほど前まではなかったように思います。勝利した選手たち、敗北した選手たち、もちろんいろんな感情が交錯するでしょうが、それらを受けとめて区切りをつけるためにこそ、すべてを「一礼」という儀式のみに込めていたのではないかと思います。「必ず優勝してくれ」「おまえたちの分も頑張る」などの声かけに、私は、素直に感動する気持ちと、過剰なセンチメンタリズムに戸惑う気持ちの両方を感じます。

そう言えば、こんなことがありました。高校教師になって、初めて3年生を送りだしたとき、卒業文集に「贈る言葉」を書いて欲しいとの依頼がありました。経験も知恵も乏しく、不安定で、日々揺れながら、初めての3年間のサイクルを終えたばかりの私は、担任としても、授業担当としても、「自分なりの最善は尽くした」と言い切れる気分ではなく、「もっとこうすればよかった」「生徒たちに申し訳なかった」という不全感に基づく、センチメンタルな文章を書きました。今振り返ると、これは、“証文の出し遅れ”であり“弁解の言葉“であったようにも思います。それに対し、理科のある先輩の先生の文章に強烈なインパクトを受けました。潔いと思いました。カッコいいなと思いました。自分の書いた「事後の饒舌な弁明」を恥ずかしく思いました。たった一行だけの「贈る言葉」、それは、こんな文章でした。

 

物の理(もののり)を教えました。 藤井寺高校 物理担当 仲谷隆次