所長だより027 「いつの日か語り合えるときが…」

2015年9月30日

 9月22日~27日の日程で、本学と「国際学術交流協定・学生交流実施細目」を締結している、韓国の光州教育大学を訪問しました。光州教育大とは以前から交流協定を結んでいましたが、院生・学生の相互交流を具体化するために、今年の1月に、山下副学長等と一緒に訪韓しました。そして、2月には光州教育大の教職員4名、学部学生20名が来日し、本学の学生・院生との交流会等を実施しました。さらに今回、本学の教員3名と7名の院生で光州教育大を訪問し、韓国の現職院生との意見交換会、附属小学校の授業見学、大学の授業見学等を行いました。

 韓国は、私はこれまでに十数回訪れたことがありましたが、光州は今年の1月の訪問が初めてでした。そのときは、「やっと光州訪問が実現した」と感慨深いものがありました。

 学生時代から、私は、韓国の被爆者を支援する市民運動にかかわり、韓国の被爆者調査等のために、20代の頃に十回ほど韓国を訪問しました。ヒロシマ・ナガサキの被害について、一般的には「平和な町が、原爆によって、一瞬のうちに灰となった。世界で唯一の被爆国・被爆国民として、その被害を世界に発信していかなければいけない」というような論が立てられます。けれども、所長だより017 に書いたように、“自己否定の論理”にこだわっていた当時の学生文化の中で、私は、友人数名と朝鮮人の被爆者の問題を考える研究会を結成し、被害者の立場にのみ立脚した「唯一の被爆国・被爆国民」などの言説の欺瞞性を批判し、韓国の被爆者を支援する日本の市民運動にも参加していきました。

 1945年8月の段階ではすでに連合国の勝利(日本の敗戦)は時間の問題であり、アメリカの原爆投下の本当の意図は、「戦争を早く終結させるための正当な手段」などではなく、第二次世界大戦後の世界における主導権を握るために、いち早く開発した核兵器の能力を全世界に見せつけることであったのは、国際政治の世界では常識です。そして、言うまでもなく、アメリカ帝国主義の、原爆投下による、非戦闘員を含めた大量虐殺の暴挙は、決して許されるものではありません。

 けれども、私たちは、このような原爆投下の非人道性を認識したうえで、当時の日本の平和運動の問題も指摘しました。ヒロシマは、日清戦争の際に大本営(軍の最高統帥機関)が置かれたこともあり、1945年当時も、市内には陸軍被服支廠・陸軍兵器補給廠・三菱重工業広島造船所等の軍事施設・軍需産業が存在した、「軍都」として機能していた町でした。「平和な町」という捉え方でいいのか…、それが私たちの問題提起でした。

 また、ヒロシマ・ナガサキで被爆した方はおよそ69万人、そのうちの一割強にあたる約7万人は朝鮮人の被爆者でした。日本人だけが「唯一の被爆国民」なのではありませんでした。彼らの多くは、日本の朝鮮植民地支配の結果として、徴兵・徴用されたり、朝鮮半島での生活基盤を失い渡日した人々でした。朝鮮人被爆者の立場からすれば、「私たちは、日本に連れて来られ、被爆させられた」ということであり、彼らの主張は、当時の日本の“加害者性”を浮き彫りにするものであると私たちは考えていました。

 私たちは、1970年代に、戦後に帰国した在韓被爆者の方々を訪問し実態調査を行いました。ソウル・釜山・大邱の3地区で、それぞれ100200名の被爆者の方に面接調査を行いました。そして、1980年の5月、今度は光州を中心に全羅南道の被爆者の実態調査の計画を立て、大阪から航路で韓国に向かうため、大阪南港に集合しましたが、韓国の政情が不安定ということで急遽中止となったのでした。前年にクーデターを起こし軍の実権を掌握した全斗煥は、1980年5月17日に戒厳令を布告し、翌18日には、有力な政治家を逮捕しました。その中には、全羅南道出身の金大中も含まれていました。これがきっかけとなり、光州の学生や市民は民主化運動に立ち上がり、鎮圧に動員された軍と激しく衝突しました。日本では「光州事件」、韓国では「5・18民主化運動」と呼ばれています。527日の軍の「制圧」までに約200名の死亡者が出るなど、とても私たちが訪韓調査を行える状況ではありませんでした。

 私の個人的な思い入れですが、「やっと光州訪問が実現した」というのは、そういう意味でした。その間に、35年の歳月が流れていました。

 光州教育大の本部棟の前には、二つの石碑があります。一つは、日本の植民地時代に建てられたもので、ハングルで「日々、新たにあれ」と記されています。一日一日、成長せよという意味でしょうか。もう一つは、2013年に90周年事業の一環として建てられた碑で、「子どものこころのように(オリニマウンチョロム)」と書かれています。1月の訪韓時には、山下副学長は、この碑にいたく感動しておられました。所長だより001でご紹介した、「子どもの心と大人の知恵」という山下先生のお考えと通じるものがあるからだと思います。そして、山下先生は、植民地時代の碑の「上から目線」の言葉と、90周年の碑の「子どもに寄り添う」言葉の対照が印象深いともおっしゃっていました。

 今回の訪問時の、韓国の現職院生との交流会でも、「教師と児童生徒との信頼関係の重要性」に関しては、両国の院生どうしで意見が一致し、話が盛り上がっていました。国が違っても共通する普遍的な教育観を確認することができたことは、院生にとっても貴重な体験となったと思います。

 と同時に、今回の訪韓ではまだ踏み込めないテーマもありました。その一つは、歴史問題でした。

 見学させていただいた教育博物館には、光州学生独立運動のジオラマがありました。1929年、通学列車の中で、光州中学に通っている日本人の学生たちが、光州女子高等普通学校の女子学生の髪の毛を引っ張りながら朝鮮人云々とからかい、それを見た光州高等普通学校の男子学生と喧嘩になりました。この後、同様の事件が続く中で、やがて、民族の解放と植民地の奴隷教育、民族同和教育を撤廃させるための学生たちの運動が始まりましたが、朝鮮総督府は抗日運動を弾圧し、260名の学生を拘束しました。

 ジオラマでは、人形で、列車の中で女性の髪に手をかけ引っぱる様子や学生の弾圧の様子が再現されていました。私は、バスの白人優先席に座ったために黒人女性が逮捕された事件をきっかけにキング牧師等が展開したバス・ボイコット運動のことなども思いだし、展示に見入っていました。けれども、案内してくださった国際交流担当の方は、「気を使って」このコーナーについてはあまり説明されませんでした。キャンパス内には光州学生独立運動の記念碑もあり、教育文化館には竹島(独島)に関する展示もありましたが、これらについても説明はされませんでした。

今回の訪問は、本学の学長のリーダーシップによる「グローバルな視点を持った教員を養成する海外研修プログラム策定のための調査研究」事業として実施したものです。交流は緒に就いたばかり、ことを焦ってはいけないと思いつつ、単なるコミュニケーション・多文化理解のテーマの取組に終わらせてはいけないと私は思っています。近年叫ばれる「グローバル教育」には、経済のグローバル化に対応した、国際的な競争に打ち勝つ産業兵士を育成するという思惑が透けて見えることがあります。けれども、学校教育が担うべき本当の意味の「グローバル教育」のキーワードは、競争ではなく共生であるはずです。キング牧師は、1963年に、「I Have a Dream」と語りました。私にも、夢があります。

「いつの日かきっと語り合えるときが来る…」

そう願いながら、私は帰国の途につきました。

 

碑 ジオラマ