所長だより026 「糸へんとごんべん」

2015年9月23日

 前回の所長だよりで、「因」と「縁」について触れましたが、私は、宗教的なバックボーンがあるわけではないので、仏教等における考え方を踏まえて書いたわけではありません。宗教における「因」「縁」の考え方について、よろしければ、メール等でご教示いただけるとありがたいです。

 ところで、「縁」という字は糸へんの漢字ですね。

 本学の教職大学院の院生は、授業や実習での学びを毎週振り返って、その中での気づき等を「週録」にまとめます。3年前、ある院生が、こんな感想を週録に書いていました。

 

大学院での学習において様々な学習用語に出会う。そのうちで糸へんの漢字がよく現れることに気づいた。「論・説・諭」等、ごんべんの字が多そうだとは予測していた。ところが実際に使用されたのは「緯・紀・級・緊・繰・係・系・経・継・結・索・続・総・組・素・績・織・緒・緻・繋・約・綴・紹・縦・統・納・編・絡・練・絆」で、30字以上にのぼった。意外だった。私は「『経』営コース」ですが、いま関心をもっている言葉は「『統』合」です。

 

 非常に興味深く思いました。「学級」「◯組」「成績」「給食」…、確かに、教育用語には糸へんの漢字がよく出てきますね。

 所長だより012で、「科学の知」と「臨床の知」について触れました。「科学の知」は、普遍性・論理性・客観性の原理に基づく考え方です。それに対し、「臨床の知」は、個別性・現実性・関係性を重視する考え方です。

 物事の意味を分析し言語化すること(“言”“語”いずれもごんべんですね)は、「科学の知」の基本的な方法論の一つであり、教育学においても重要な方法論です。しかし、言語化とは、言葉にできない大切なものを失ってしまう危険性を常に孕んでいるものであることに留意したいとも思います。特に、近年の教育に関する(いや教育だけでなく政治等も含めて)言説を見ていると、物事を強引に単純化して言語化することが力強さ・正しさであるという大きな勘違いしているのではないかと感じることがよくあります。

 「臨床の知」は、論理性に過剰なこだわりを持ちません。分析・言語化は大切ですが、河合隼雄先生は、「分けてしまうと魂を飛ばしてしまう」と指摘されています。

 

河合 無限の直線は線分と1対1で対応するんですね。部分は全体と等しくなる、これが無限の定義です。だからこの線分の話が、僕は好きで、この話から、人間の心と体のことを言うんです。線を引いて、ここからここまでが人間とする。心は1から2で、体は2から3とすると、その間が無限にあるし分けることもできない。

小川 ああ、2.00000・・・・・・・。

河合 そうそう。分けられないものを分けてしまうと、何か大事なものを飛ばしてしまうことになる。その一番大事なものが魂だ、というのが僕の魂の定義なんです。

小川 数学を使うと非常に良く分かりますね。

河合 お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ。分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂というと。善と悪とかでもそうです。だから、魂の観点からものを見るというのは、そういう区別を全部、一遍、ご破算にして見ることなんです。障害のある人とない人、男と女、そういう区別を全部消して見る。

≪小川洋子・河合隼雄(2011)「生きるとは、自分の物語をつくること」≫

 

 また、「臨床の知」は、現実性(リアリティ)を大切にします。そもそもこの世なんて、論理的に語りきれるものではないという感覚を大切にします。

 私は小学生だった頃、「クレージーキャッツ」(1960年代に人気を博したコメディアンバンド)が大好きで、テレビや映画をよく見ました。彼らの「笑い」には、子どもながらに、(その後に人気者になった「ザ・ドリフターズ」等にはない)独特のペーソスとヒューマニズムを感じていました。後に、中心メンバーだった植木等が自身の父親である植木徹誠について書いた本を読みました。植木徹誠さんは浄土真宗の僧侶で、水平社運動にもかかわり、「等」の名前も「平等」にちなんで名付けたそうです。植木等は、父親の影響を強く受けたからこそ、他者を「からかう」「あざける」ことによる笑いは決して取り入れなかったのだと思います。その植木徹誠さんが残した次の句が私は好きです。

   

 割り切れぬまま割り切れる浮き世かな

   ≪植木等(1984)『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記』≫

 

 明晰で論理的な言葉は、時に人を傷つけます。その防ぎの知恵は、「科学の知」「ごんべん」ではなく、「臨床の知」「糸へん」の中にこそ見出せるのだろうと思います。「縦の糸はわたし、横の糸はあなた、織りなす布は…」の名曲『糸』を作った中島みゆきは、人の体表が毛や甲殻などに覆われていない理由をこう言いました。

   

 柔らかな皮膚しかない理由(わけ)は、人が人の痛みを聴くためだ

 ≪中島みゆき(2003)「銀の龍の背に乗って」≫

 

 生徒指導においても「糸へん」の知恵を大切にしていきたい、私はそう思っています。