所長だより025 「布置」

2015年9月16日

 先日、久しぶりに、プラネタリウムを観ました。場所は、徳島の「あすたむらんど」(子ども科学館を中核施設とした科学と自然にふれる大型公園)で、ここにあるプラネタリウムは、本学の大学院を今年の春に修了した学生が解説員を務めています。

 私は、天体に詳しいわけではなく、特に星に関心があるというわけでもありませんが、十数年前に、乗鞍高原に家族旅行に行き、夜中に駐車場に到着して、運転席から降りて、ふと上を見上げた時に目に入ってきた「満天の星」に、思わず息を呑んだことはよく覚えています。

 ユングの重要な概念の一つに、布置(ふち、コンステレーション、Constellation )があります。布置とは、本来は「星の配置」「星座」を意味する言葉です。一見、無関係に見える夜空の星の配置を、全体として(星座として)見ると、何らかの意味を持ってくる、そして神話を想像する…。そこから、心理臨床では、クライエントの問題を考えるにあたって、その人個人にだけ着目するのではなく、クライエント(主星)を取り巻くさまざまな人間(星)の配置全体に目を向けることで、クライエントが直面している問題の意味・物語を読み解こうとするのが、布置という考え方です。

 大切なのは、全体的な事象としての意味を考えることです。一昔前に、“子どもの問題の多くはお母さんに原因がある”とする「母原病」などという言葉が流行ったことがありましたが、母親という星だけを見て本人(主星)との因果関係を考えるような発想は、布置という考え方の対極にあるものです(でも、私たち教師も、ときどき、「父親が厳しすぎるのが原因だ」「お母さんが干渉しすぎるからだ」などとつい口にしてしまうことがありますよね)。

 ここからもわかるように、布置の考え方でもうひとつ大切なのは、星の配置の意味を考えるということは星と星との関係を単線的な因果関係で読み取ることではないという点です。河合隼雄先生は

 事象の非因果的連関を読みとる能力をもつことは、心理療法家として非常に大切なことである。

   ≪河合隼雄(1992)「心理療法序説」≫

と述べておられます。私は、元来はどちらかと言うと物事を理詰めで考える性格だったので、20数年前、本学の大学院で学んだ際に、河合先生のこの言葉が強く印象に残りました。河合先生は、「・・・すれば・・・となる」というような、現象を因果律によって理解する近代科学の考え方は、心理療法においてはあまり有効ではないと指摘されています。そして、因果律的思考はしばしば「悪者探し」に終わり、悪者探しは単に「自分の責任ではない」という責任逃れとして用いられることが多いと述べておられます。

 近年は、学校教育においても、マネジメント論、PDCAサイクル等の考え方が重要であるとよく言われますね。私も、何の問題意識もなく淡々と業務をこなすような「その日暮らし」の在り様がよいとは決して思いません。13年前に、大阪で人権教育の研究・実践に取り組んでいた教師仲間と共著で出した本の名前も、「やってみよう!総合学習学びのPlan-Do-See」(高校総合学習プロジェクト大阪編、2002年、解放出版社)としたくらいです。

けれども、ネコも杓子も、野球部のマネージャーまでもマネジメント論を口にする風潮を見ていると、PDCA的な発想で何もかもが解決するのか?という疑問を感じるときがあります。マネジメント論から何となく漂ってくる「操作的な人間観」も、あまり好きではありません。私は、PDCAサイクルで捉えることができるのは、「因」の問題、すなわち因果律で考えることができる問題だけだと思っています。けれども、私たちが直面するのは、「因」の問題だけでなく、「縁」の問題もあるはずです。そして、後者は、たとえば恋愛などを想定すればわかるように、「状況や問題の分析方策立案実行検証」というようなサイクルで論じることがそもそもナンセンスな問題だと私は思っています。たとえば、夫婦の問題について、「最近、夫婦仲がぎくしゃくしているのは、夫婦間の対話が減っているからだ」と分析し、「毎日10回以上の会話」と数値目標を設定する人などいないでしょうし、もしも本気でそんなことを考える人がいたら、ある意味「やなヤツ」ですよね。だから、私は、「因」の問題を考える際にはマネジメント論も有効であるとは思いますが、「縁」の問題を考える際の知恵としては、布置の考え方に学ぶ必要があると思っています。単純な因果関係で考えず全体を見る中で、あるとき、「息を呑む」ような気づきが訪れることがあるようにも思います。そして、もうひとつ言えば、私たち教師にとっては、児童生徒との「縁」の問題こそが、難しくもあり大切でもあるのではないかと思っています。

 中島らもは、不幸な出来事が続くことを嘆く投書に対して、こんなコメントを返しています。

僕にはこういう「絵に描いたように不幸な人生」というのが信じられないのだ。人生の不幸の点と点をつなぎ合わせていけば、確かにそこには点描法で描いた「不幸な人生」が浮かび上がってくるだろう。だが、逆のこともいえないだろうか。微笑みと微笑みをつなぎ合わせて一枚の暖色の絵を描くことだってできるはずだ。

≪中島らも(1987)「中島らもの明るい悩み相談室」≫

そういう意味では、「布置を読む」と言っても、何と何をどうつなぎ合わせてどう読むかという「読み方」が大切なのかもしれません。それから、「不幸と幸福」ということから連想したのですが、「きれいな星空」を見るためには「暗さ」が必要であるということも、なにやら象徴的な気がします。私がプラネタリウムに行ったきっかけは、「日本一暗い村」(=日本で一番きれいに星空が見える村)として有名になった、長野県阿智村のテレビ番組を観たことでした。暗さ(影・闇・不幸…)に覆われていると思っていた夜の空に輝くからこそ、星は美しく、人を感動させる…。

南こうせつが、よく、コンサートの最後に歌う「満天の星」(1990年、岡本おさみ作詞)には、こんな歌詞が出てきます。

 また会おうよ 君のことは忘れない

 さわがしい街並 はずれたら 仰いでごらん 空を

 ひとりぼっちの君に 降るのは 満天の星

 ひとりぼっちの君に 降るのは 満天の星

 人は、ひとりぼっちだと思った時には、夜空を見上げ、「満天の星」を眺め、息を呑み、自分のまわりの人間関係に思いを馳せることが必要なのかもしれませんね。