所長だより023 「性善説・性悪説」

2015年9月2日

 今年の夏は、「いじめ問題」についての講演のご依頼をたくさんいただきました。

 先日、ある学校の職員研修で講演を行った際に、終了後に「先生は性善説ですが?性悪説ですか?」と質問されました。人間の本質についてのご質問をいただき、嬉しく思いました。なぜなら、当日の演題を「『いじめ対策論』から『いじめ人間論』へ」とし、「人とは何か」「人が他者と生きていくとはどういうことか」を先生方と一緒に愚直に考えたいと思っていたからです。

 いじめは、現在、大きな社会問題になっています。いじめの社会問題化の波は、これまでにも何度かありました。

 第1の波は、1980年代半ば、1986年の東京都、富士見中学の男子生徒の自殺事件等が大きな問題となりました。第2の波は、1990年代半ば、1994年の愛知県、東部中学校の男子生徒の自殺事件等が大きな問題となりました。第3の波は、2000年代半ば、相次いだいじめ自殺予告手紙が大きな問題となりました。そして、第4の波は2010年代、2011年の滋賀県、大津市立中学校の男子生徒の自殺事件が契機となり、今年に入って、岩手県の矢巾町で中学校男子生徒の自殺事件が起き、いじめ防止対策の徹底の必要性が叫ばれています。

 いじめ等により自らの命を絶つような出来事には、言うまでもなく、誰もが胸の痛みを感じるだろうと思います。いじめ防止が重要な問題として論議されることも大切だと思います。

 ただ、私は、社会問題化に過剰に反応し過ぎることの問題点も感じています。「早期発見」「組織的対応」「警察との連携」…、どれもが重要なことではありますが、これらは、いじめにどう対処するかという『いじめ対策論』ではあっても、「児童生徒はなぜいじめによって深刻なダメージを受けるのか?」「児童生徒はなぜ集団で特定の他者をいじめるのか?」などの問題を考える『いじめ人間論』ではありません。

 また、社会問題化の「波」が何度かあったということは、あえて皮肉っぽく言えば、途中で波が引いた時期もあったということに他なりません。

「流行しないから、流行遅れにならない。」

これは、ある時計メーカーの2000年のCMのキャッチコピーです。教育といえども、時代・社会・政治と無縁で定位できるものではありません。けれども、「教育の論理」が「政治の論理」に従属するかたちで展開されてよいわけがないとも私は考えています。だから、流行(≒社会問題化)しようがしよまいが、私たち教員は、仲間と共に学校生活を送る中での児童生徒の苦悩や葛藤に丁寧に寄り添い続けていきたいと思います。そして、児童生徒の苦悩や葛藤を理解するために必要なのは、『いじめ人間論』ではないかと思っています。

「先生は性善説ですが?性悪説ですか?」

私が以前、教頭として着任した高校のある学年が、とても荒れていました。そんな状況を立て直すために、本気で生徒指導に取り組んでくれたある先生から、同じ質問をされたことを思い出しました。その先生は、厳しい状況に向かい合いながらも、目を輝かせながら「人間とは」「教育とは」を熱く語る先生でした。

「先生は性善説ですが?性悪説ですか?」

孟子や荀子の考え方もそうだと思いますが、これは二者択一のテーマではなく、人間をどの側面から捉えるかという問題だと思います。ですので、両者(の統合)が大事だということになるかもしれません。

でも、私は、「あえて言えば『性アホ説』です」と答えました。「性アホ説」とは、中島らもが、性善説・性悪説にかわる第三の真理として、ユーモア(そして底流には人間愛)を交えて提唱した「人間・性アホ説」です。確かに、私自身も「あなたは善人ですね」とか「君は悪人だ」とか言われると否定したくなりますが、「あんたはアホやなあ」と言われたら何となく頷きたくなります。中島らもは、「わけのわからないアホなことを考えてしまう存在」「理屈に合わないアホなことをしてしまう存在」というような人間の本質にこだわっていたのだろうと思います。だから、私の立ち位置は「性アホ説」です。「あってはならない」「人間として許されない」ではなく、人のアホみたいな部分、弱い部分、愚かな部分を直視する中に教育言説のリアリティを求めていきたいと私は思っています。