所長だより021 「ボークを宣告した審判」

2015年8月19日

 全国高校野球選手権大会も終盤を迎え、今日は準決勝戦です。

 17年前の夏の大会の2回戦で、愛知県代表の豊田大谷高校と山口県代表の宇部商業高校が対戦しました。延長15回、誰もが予想もしていなかった「サヨナラボーク」で幕切れとなった一戦として、語り継がれていますね。インターネットで読んだデイリースポーツの記事( 519日配信)には、ボークを宣告した主審の林清一さんのエピソードが紹介されていました(以下要約)。

 

100年の歴史で今のところ唯一のジャッジは、異様な雰囲気の中、“究極の当然”を求めた結果の産物でもあった。

第2試合。グラウンドは38度。直後に横浜・松坂大輔の試合が控えており、「あの時点で超満員でした」と林氏は振り返った。15回裏。豊田大谷は無死満塁の絶好機を迎えた。200球を超える球を投げてきた宇部商のエース・藤田修平はこの場面で、林氏の想定になかった動きをした。プレート板に足をかけた藤田はセットに入ろうとした手を「ストン、と落としたんです」。林氏は迷わず「ボーク」を宣告、サヨナラゲームとなった。「5万人のスタンドが一瞬、静まりかえって、そこからざわざわする声に変わりました」とその瞬間を振り返った。もし藤田が足を外していれば、ボークではない。「だんだん不安になりました。(ミスなら)やっちゃった、審判人生、終わりだな」とも思った。もちろん現場やテレビなどを見た同僚、関係者から「間違いなくボークだった」の確認が入った。

  それでも直後の会見では、報道陣から「なんであんなところでボークを取るんだ」、「注意で終わらせられないのか」といったヒステリックな声も飛んできたという。

  この場を収めたのは、ベテラン審判員の三宅享次氏。「審判は、ルールの番人です。以上!」と制した。

  当時は、四角四面の冷徹なジャッジと感じる向きもあったかもしれない。しかし-。

  通常、試合終了時は野手のミットやグラブに送球(投球)や、サヨナラなら打球が収まる。しかしこの試合は、投手・藤田の手にボールが握られたままだった。

  甲子園の、暗黙のルールとして、ウイニングボールは目立たないように、勝利校の主将にプレゼントされる。が、林氏は2年生投手の藤田が渡そうとしたボールを「持っておきなさい。そして来年、また甲子園に来なさい」と、受け取らなかった。勝った豊田大谷にはポケットから出した試合球を手渡した。

 

記事の最後は、「血の通ったルールの番人があればこそ、甲子園で球児は躍動する」という言葉で締めくくられていました。素敵な取材記事だと思いました。

狭義の生徒指導(規律指導)を担う教員の役割は、「四角四面の冷徹なジャッジ」と言われようとも「究極の当然」を求める審判の役割に通じる部分があるかもしれないと私は思いました。そして、「血の通ったルールの番人」という言葉から、河合隼雄先生の文章を思い出しました(以下要約)。

 

思春期の生徒に対する場合、彼らの心の奥底からつき上がってくる衝動に対して、大人が防壁となって立ちはだかってやる心構えをもつことが必要である。そのような壁にぶつかってこそ、破壊的なエネルギーが建設的なものに変容するのである。これは、子どもたちがもたらす破壊性に対して、社会や既存の体制を守るというよりも先に、子どもたち自身の安全を守る壁、という意味をもっている。

   ところが、前に述べたような、開かれた自由な態度とか、生徒を理解する態度とかを浅薄に理解している教師は、甘くなってしまって、生徒の前に壁として立つ強さに欠ける。

   壁として立つ、ということを誤解すると、生徒を厳しくしめつける方がいいなどと考えることになる。壁はがっちりと立っていて、それに当たってくるものをはね返すが、自ら動いて他をしめつけたりはしない。道徳を鞭として用いるのではなく壁として用いる、という点をよく心得る必要がある。

壁はすでに述べたように、守りとしての役目をもっている。しかし、その一方では、それ以上の前進を妨げるという性格ももっている。壁のもつこのような二面性は、道徳のもつ困雛さをよく示している。つまり、道徳があまりにも堅く不動であると、それは新しい発展を妨害することにもなり得るのである。思春期の子どもたちの前に、大人は不退転の壁として立ちつつ、それはもしかして新しい発展への妨害であるかもしれぬという二面性を意識していることが必要である。壁の比喩を用いるなら、子どもたちの守りとして立っている壁は生きていなければならない。それは相手と感情の交流を行い、自分のあり方について考え直してみることのできる壁でなければならない。

   ≪河合隼雄(1992)「子どもと学校」≫ 

 

 生徒指導とは、一人一人の児童生徒の個性の伸長を図りながら社会的資質・行動力を高めることをめざすものです。管理・叱責・懲戒等の規律指導はその一部にすぎません。けれども、荒れ・学級崩壊・暴言・暴力・華美な服装や頭髪等への対応に苦慮している学校現場の多くの教員は、「すべてではない」が「重要な柱の一部である」と考えています。にもかかわらず、大学の教員養成課程における生徒指導に関する科目では、「規律指導は生徒指導のすべてではない」ことを理由に、広義の生徒指導や教育相談については時間を割いて説明する一方で、規律指導にはあまり言及されない傾向があったように思います。

 後期から始まる学部授業「生徒指導論」では、高校野球のエピソードなども交えながら、「究極の当然」を求める「血の通ったルールの番人」としての生徒指導担当教員の難しさと大切さを学生たちに提起し、現場の規律指導を担う先生方をエンパワーしていきたいと私は思っています。