所長だより013 「傷つくことによって癒す」

2015年6月24日

 前回の所長だよりでは、(自分が)傷つくことによって(相手を)癒すという「受苦的なかかわり」について書きましたが、このような知恵は、実は、昔から人が持っていたものです。

 近代的・科学的な医学が確立されていない時代には、「治療」ではなく、宗教的な色彩を帯びた「癒し(ヒーリング・Healing)」が行われていました。古代ギリシアでは、医神であるアスクレーピオスの神殿等でヒーリングが行われました。河合隼雄先生も、ヒーリングに言及されています。

体の病気を治す時にさえギリシャ時代には、「傷つくことによって癒す」(Healing by Wounding)という考え方があります。これは、頭の痛い人がくれば医者は自分が頭を痛めることによってその人が治る、つまり患者の痛みを医者がそのままひきうけることによって治療が行なわれるというわけです。

≪河合隼雄(1970)「カウンセリングの実際問題」≫

 ヒーリングは、神殿内部の閉じられた空間で行われます。そして、癒しを司る人(ヒーラー・Healer)は、相手の痛みを感じ取り(病者にとっては「痛みを分かってもらえる」体験をすることを意味します)、そのことを通じて痛みが治まっていくということです。

 ところで、興味深いことですが、心理学者の中には、古代のヒーリングと現代の心理療法の類似点を指摘している人がいます。サミュエルズSamuels,A.は、最初に分析家が患者と会う段階では、分析家は「強くて健康で有能な存在」であり、患者は「受動的で依存的な傷ついた存在」であると述べています。そして、患者が分析家を「全能者」として見ることは、治療を引き起こす最初の段階では必要だが、治療が進展するためには(すなわち患者の自己治癒能力が開花するためには)、どこかの時点でそのような関係が変化していく必要があり、そのためには、分析家が自分の内なる傷を負った部分を患者に投影しなければならず、そうすることで、分析家の営みは「患者と自分自身の合金を治療」するようなかたちになると指摘しています≪サミュエルズ/村本詔司・村本邦子訳(1990)「ユングとポスト・ユンギアン」≫。

 私は、20年ほど前に、サミュエルズの著書を読んでいて、さらに十数年前のある生徒との出会いを思い出しました。

 その生徒は、私が20代に高校の担任としてかかわった男子生徒Aで、学校生活に馴染めず不登校となり、最終的には中途退学していきました。Aは、対人恐怖という問題を抱えており、そのような診断も出ていました。生徒指導や教育相談をよく理解していなかった私は、どうすればいいのだろうとうろたえ、右往左往しながら、家庭訪問を繰返し、学校に戻るのは難しいという状況の中で彼が望む新たな進路を探すために一緒にいくつかの職業を見学に行ったりしました。また、少しでも彼の内面を理解したいと思い、対人恐怖に関する本も何冊か読みました。その中の一冊が、福井康之先生の「まなざしの心理学」(1984)でした。Aの苦悩のキーワードが「自分の視線」であり「他者の視線」であったからです。久しぶりにその本を開いてみると、こんな箇所に傍線が引いてありました。

 ・人は他者からまなざされることによって、自己というものがどんな存在かを知り、自己がどうすべきかを知る。しかし、まなざしだけでは、そのまなざしがどういう意味を持っているかが判らない。その場合、他に手がかりがないと、自分が他者に対して抱いている想いに応じた想いで、他者も自己をまなざしているという判断が主観的になされる。

 ・青年期は他者のまなざしによって規定される自己のイメージ(自己像)が、まだ形成途上にあるので、成人に比べて他者のまなざしに過敏である。

私は、Aとのかかわりの「実践」と福井先生のご著書の「理論」の往還の中で、私なりの青年期理解に至ることができたように思います(ちなみに福井先生はその後、1996年~2000年に本学の教授として活躍されました)。

 こうして、福井先生のご著書を手がかりに、Aの苦悩の輪郭が何となくわかってくるにつれて、やがて私自身が、「まなざし」の意味にこだわって考えるようになりました。すると、例えば自律神経に統制されているときは何でもなかった「呼吸」が、改めて意識し始めるとぎこちなくなるような感じに似ているかもしれませんが、私自身、他者の視線にある種の脅威を感じるようになり、他者に対する自己の視線の向け方が気になり始めるなど、私自身が対人恐怖症的な状態に陥ったのでした。また、別の本で書かれていた、ある対人恐怖症の若者の「“間”は“魔”である」という言葉が頭に残り、その結果、他者との会話の中での“間”“沈黙”が気にかかるようになりました。

これは、Aとのかかわりの中で、「自分の内なる傷を負った部分」である“対人緊張”“対人恐怖”というテーマが活性化したということなのでしょうが、表現を変えると、Aの「傷」「痛み」を私が想像することで私自身も「傷ついた」「痛くなった」とも言えるでしょうし、Aの「病気」が私に「うつった」(「うつる」は「移る」にも通じていますね)とも言えるかもしれません。

 当時のこのかかわりは、私にとっては「Aのことでうろたえながら走り回った」という主観的体験ですが、その後に何度か会ったときのAが「先生がいてくださったから本当に助かった」と私に対する感謝の念を口にしたように、Aにとっては「先生に助けられた」という主観的体験であったのかもしれません。これが、私にとっての大切な「傷つくことによって癒す」物語です。

 生徒指導における児童生徒理解や、教育相談における共感的理解についても、Healing by Woundingという観点があれば、その意味をより深く考察することができるのではないでしょうか。