所長だより011 「教師が教師になるとき」

2015年6月10日

 他県で講演させていただく際は、身近に感じていただけるように、その県に関係のある人・事柄・出来事などをとりあげるようにしています。先々週の高知県での講演では、高知県の中学校の先生の実践事例と、アンパンマン(作者のやなせたかしさんは幼少期を高知県で過ごされ、おとうさんの実家があった香美市には「やなせたかし記念館・アンパンマンミュージアム」があります)にも触れました。

 「高知県の中学校の先生の実践事例」というのは、本学の教職大学院を修了された高知県の中学校のA先生が一年をかけて生徒との信頼関係を築かれた事例です。A先生は異動したB中学校で3年生の担任を持つことになりました。当時、B中学校は荒れていたそうです。中でも、A先生が担任となったクラスのCくんは、学校生活に馴染めず、遅刻・欠席・暴言などが目立つ生徒でした。始業式、A先生が初めてCくんと出会います。A先生が、「今度、担任になったAです。よろしくな。」と声をかけると、Cくんはこう言ったそうです。

「誰がお前を担任って決めた?俺はそう思ってないぞ。」

教師に対する口のきき方を注意することも考えられるかもしれません。けれども、A先生は、こう答えたそうです。

「そうやな。それなら今から1年かけて担任になるわ。」

このときの出来事を、A先生はこんな言葉で語られました。

「中学校生活2年間の教育が、Aをここまで『大人不信』にしてしまったのかと胸が痛みました。そして、『このまま大人不信を抱えて卒業させたらいけない』『大人も捨てたもんじゃないとわからせたい』と強く思いました。」

 それから、A先生の根気強い働きかけが始まります。そして、紆余曲折の後、卒業式の日、Cくんは「ありがとな」の言葉を添えて、A先生に花束を持ってきてくれたそうです。

 A先生は、このときのCくんとの関わりを振り返って、こう話されました。

Cくんに出会うまで、自分は自分自身のことを当たり前のように『先生』だと思っていた。

だからこそ、「担任とは認めない」と面と向かって言われてみて、「なるほど、そうだよな」と開眼した思いである。

「教師とは、生徒に認められてこそ初めて教師になれるんだ」ということに、改めて気づかされた。

子どもは教師を選べない。だからこそ、私たち教師は子どもの心に寄り添えなければならない…。

児童生徒は担任の言うことを聞かなければいけない、児童生徒は同じクラスの仲間と仲良くしなければならない…、一見正しいようですが、よく考えると、これは教師の側の論理にすぎません。学級とは最初は教師の側の判断による人為的な集団に過ぎないはずです。社会学者のテンニースの概念を借りるならば、スタート時点の学級は、ゲゼルシャフト(利益社会、何らかの目的達成のために人為的・機械的に形成された社会・集団)ではあっても、ゲマインシャフト(共同社会、血縁や友情などのパーソナルな結合による社会・集団)ではないはずです。

私は、A先生の言葉をヒントに、学級運営とは、「ゲゼルシャフトとしての集団をゲマインシャフトとしての集団に深めていく営み」、つまり、学級(における児童生徒どうしの関係、児童生徒と教師の関係)は、最初から当たり前に存在するものではなく、「育んでいくもの」「紡いでいくもの」であることに気づきました。言い方を変えると、学級は、担任の学級運営と児童生徒の共同・協働によって、初めて、真の意味での学級になるものであるということです。教師だからと権力を振りかざすのではなく、児童生徒との信頼関係を築いていく中でこそ、「教師が教師になるとき」が訪れるのだということを、A先生は教えてくださいました。